まず、GLIM SPANKY(以下グリムスパンキーと表記する)という男女2人組の音楽ユニットがいる。
・松尾レミ(1991年12月7日生まれ/ボーカル・ギター担当)
・亀本寛貴(1990年8月24日生まれ/ギター担当)
2人とも平成生まれの若手ロックユニットとして、ここ数年(恐らく3年くらいだと思う)音楽シーンの期待を集めているユニットだと思う。
既に現段階でドラマや映画の主題歌を務めたりと、とても売れっ子になってしまっている感はある。
このユニットの核になるのは、松尾レミの強烈なインパクトを与える歌声なのだろう。
なんたってその松尾レミの歌声は、ジャニスジョプリンの再来なんて言われていたりする。
僕はジャニスジョプリンをよく知らないので、このブログにその名前を初めて書いた時に「ジャニスジョップリン」と書いてしまって、なんだかチャップリンみたいでチョビヒゲなんて生やしているんだろうか。なんてジャニスファンからしたら怒られそうなことを思ったり思わなかったりしたほどだった。
ただ、YouTubeで検索したところ、「MoveOver」という曲が出てきて、一聴したところ、とても聴き馴染みのある曲だったので、こんな有名な曲を歌っている人の名前に「再来」なんて貫禄ある言葉を付け足した表現をするってことは、それはもう、ごいごいすー、すごいってことなのだろう。
たしかに、松尾レミの声は魅力的である。
重厚なハスキーボイス、凄み、その場を掌握しそうな圧倒的存在感。
グリムスパンキーのサウンドの傾向がロックとブルースを基調とした音楽なんて言われているけど、まさに、松尾レミの声もそんな感じ。・・・どんな感じ?って感じだろうから、まず聴いた方が早いだろう。
いとうせいこうと、ユースケサンタマリアがMCを務めるトークバラエティ番組「オトナに!」にグリムスパンキーがゲスト出演した際、松尾レミの話している姿勢もその歌声同様、とても強い芯のある、輪郭のはっきりした、周りを掌握しそうな雰囲気があった。
他方、それとは対照的なギター担当亀本寛貴は、どこか飄々としていて、だがきっと内に熱い意志を秘めているに違いない、ギター大好きっ子という印象で、その2人は、とてもバランスのとれたユニットだと思った。
そして、ここからが本題なのだが、どうしても、松尾レミと、ユーミンこと松任谷由実の声が似ていると感じてしまうのだ。
それは、グリムスパンキーが、ユーミンの「ひこうき雲」をカバーした時に強く思った。
もしかしたら、ユーミンのカバーだからこそ余計にそう思ってしまったのかもしれない。
その時に強い思い込み、バイアスが働いてしまって、なんらかのフィルターを通さずには聴くことができない、ある種の洗脳状態に陥ってしまった可能性もある。
思い込みの可能性・・・、僕がそのように自分に懐疑的になってしまったのには、ある出来事が発端となっている。
それは、以前に友人の車の中でグリムスパンキーをかけた時のこと。
それを聴いている時、何気なく、(その時は)なんの疑いもせずに言った。
「このボーカルの声、ユーミンに似てるよな」
「・・・似てなくね?」
「いや、似てるだろ」
「似てない」
そこからちょっとした口論になった。
僕は、目の前のりんごが赤いのを、いや黄色だろ、と言われたくらい、僕とその友人との圧倒的な距離、圧倒的な断絶を感じた。
お互いの世界の見え方、捉え方の大きな断絶。
それから数日後、また別の知人の車の中で、今度はある前置きをしてからグリムスパンキーの曲をかけてみた。
「グリムスパンキーのボーカルの子の声が、ユーミンにとても似ていると僕は思うんですけど、先日、とある友人にそのことを言ったら、『似てない』って言われちゃって・・・。じゃあかけますね」
「似てない」
即答だった。
「まじかよ」
「似てないね」
「嘘だ。」
完璧に自信を失った。
だが、諦められなくて、ユーミンのカバーをしている「ひこうき雲」を聴かせてみた。
すると、
「うーん、そう言われると似てるかもね」
となり、サビに入ると、
「あーここは似てるね」
となった。
え、似てんの?どっち?
「あー、でもやっぱりあんま似てないかも」
なんだよ。
そのあとその人は、ユーミンと松尾レミを比較して、一つの見解を述べた。
要約すると、ユーミンは、機械的に歌っていて、あまり自分を出そうとしない。
他方、松尾レミは、抑揚がありエモい、と。
なるほど。具体的なご意見ありがたし。
この具体的な意見を言ってくれたおかげで僕はあることに気がついた。
具体は「こだわり」を導く。
その人が言ったことは、「歌い方」についてしか言及していない。
「機械的に歌い、自分を出そうしない」
「抑揚があり、エモい」
つまり、その人は、ユーミンと、松尾レミを聴くとき、「歌い方」にこだわりを持って聴いていたことになる。
もしかしたら、その人は、歌手全般にわたっても、そういう聴き方をする傾向にあるのかもしれない。
歌は、色々な要素が組み合わさって、「歌」になるのだと思う。
「声」、「音」、「抑揚」、「音程」、「リズム」、などなど。
そしてその人は、「歌い方」を特に重要視していて、そこの部分が異なると、一事が万事的に、全体をも否定したくなってしまったのかもしれない。
では僕の方は、どういう「こだわり」を持って聴いているのだろう。
僕は、この時に限っていえば、恐らく、「声質」なのだと思う。
具体的に言えば、ハスキーボイスだったり、声のしゃがれ具合だったりだ。
僕はその部分が似ていると感じ、それを全体にまで影響させ、「似ている」と感じたし、「似ている」と言いたくなってしまったのだと思う。
ただ、このことを、その歌い方にこだわりを持っている人に言うと、「声質こそ全然違う」、と言われてしまった。
さらに言えば、松尾レミは「しゃがれたハスキーボイス」かもしれないが、ユーミンは、「鼻にかかった声」だと言う。
「声質こそ全然違う」と言われてしまうと、僕はもうお手上げだと感じてしまう。
しかし、この、「しゃがれたハスキーボイス」と、「鼻にかかった声」という、言葉の表現の違いには、感心させられた。
こういう時に言葉というのは役立つのだな、と思ったほどだった。
僕は、2人の声を「しゃがれたハスキーボイス」、もっと抽象的に表現するなら、「くぐもった声」という言葉で捉えていた。
つまり、「くぐもった声」という表現の枠で、2人の声を囲ってしまった、その表現の枠内に放り込んで一緒くたにしてしまっていたのだ。
だから、大雑把に僕は聴いていたことになる。
逆に反論してきた人は、丁寧に、具体的に聴いていたことになる。
果たしてそうだろうか。
僕はその後も、よく聴いてみたのだが、ユーミンの声は確かに鼻にかかっているといえばそうなのだが、一方で、低音のハスキーボイスにもやはり聴こえる。
「鼻にかかっている声」と、「低音のハスキーボイス」、この2つの「出自(肺・声帯)」は当然のことながら同じでも、その「帰着(鼻にかかった声や低音ハスキーボイスなど)」は、異なる所に辿り着いており、異なる結果を招いているが、ある地点で、「交錯」する点があって、または、「交錯しているように感じる」点があって、僕はそこの部分に反応して、「似ている」と感じたのかもしれない。
またこの問題はかなり「言葉の曖昧性」が鍵になっているように思う。
例えば、僕は2人の声をあくまで「似ている」とまでしか言っておらず、決して「同じ」とは言っていない。
だが、あたかも僕が「同じ」と言っているかのような、相手の反応になっているような印象を受けた。
相手の反応の、「似てない」は、極めて、「違う」という明確に区別したがるニュアンスを含んだ表現のようにも感じた。
いや、これは自分を正当化させるための卑怯な理屈を構築しているだけに過ぎないのかもしれないが。
ただ、ユーミンの普段の話をする声のトーンと、松尾レミの普段の声のトーンを聞いてみると、やはり、似ている声質なのでは、とどうしても思ってしまう。
それを、声質もろとも違うと、一蹴されてしまうと、もはや異世界に住んでいる者同士のやり合い、と思わずにはいられなくなる。
まあ、科学的に、音声鑑定や声紋鑑定をすれば、周波数などから、「似ている・似ていない」は識別できるのかもしれない。
また、骨格が似ていると、声質も似ているという話も聞いたことがある。
だが僕は、この問題は、そのような科学的根拠よりも、「言葉の曖昧性」や、「受け手(聴き手)の聴き方、こだわりの差異」の方が重要なように思う。
つまり、いくら周波数が近くても、それを「似ている」と思わない人が出てくる可能性があると僕はどうしても思ってしまって、その時、どのような回路がその人の中で働いているのか、そしてそれを言葉で表現・説明するなら、「言葉の曖昧性」、「受け手(聴き手)の聴き方、こだわりの差異」、のようになるのではないかと、そのように僕は考えたいということだ。
また、この考え方は、「顔」についての形容の仕方、「かわいい・かっこいい」、「かわいくない・かっこよくない」、または「B専」などの問題についても適応可能なように思う。
つまり、ある「顔」を捉え、「かわいい・かっこいい」という表現の帰着に至るまでの認識の働きとして、先述した、個人によってある「こだわり」を重視して、その「顔」を捉えているのではないかということだ。
「顔」も、「歌声」同様、様々なパーツからできあがっている。
「目」、「鼻」、「口」、「耳」、「肌」、「笑顔」、「内面の発露」、など。
例えば、「目」にこだわりを持っている人なら、「目」を重要視し、「口」にこだわりを持っている人なら「口」を重要視して捉える。
そしてその部分が、自分の好みと近い場合、それは「かわいい」となり、遠い場合は、「かわいくない」となる。そして、一事が万事的に、それを「顔」の全体評価にまで影響させて、その「顔」を「かわいい・かわいくない」と感じたり、言っているのではないだろうか。
また、そのパーツが、歪な形をしていたとしても、その歪さが「かわいい」と感じる人もいるだろうから、「かわいい」という表現の言葉の中には色々な文脈があることになり、人それぞれ「かわいい」のイメージの仕方、捉え方は異なることになる。
だから、一般的に万人受けする「顔」というのは、どのパーツも平均の形をしている顔で、それはつまり、「平均顔」、となるのだろう。
そのような考え方をすると、「B専」という思考停止の表現もしなくてすむように思う。
仮に自分が絶対かわいいと思った相手を、別の人は、全然かわいくないと言ったとする。
そこで、こいつは単に不細工好きな奴なんだと、思考を放り投げて「B専」という言葉で一蹴するのではなく、おかしな話かもしれないが、「どの辺がかわいくないのか」、はたまた「お前はどの部分が好みなのか」と、掘り下げることをすると、あーこいつはこういうこだわりを持って人の顔を見ているのか、と、そいつのことを知ることができ、自分とそいつの「こだわりの差異」を知れることができると思う。よって、「こいつはB専」という表現ではなく、「こいつはこういう所にこだわりを持っている」という表現に帰着することができて、なんかそっちの方が、なんか、いいんではないだろうか(最後なんか適当になってしまった)。
話を元に戻すと同時に最後の結末になるが、ユーミンと松尾レミの歌声に関して、結局正解は分からなかった。
だが、大事なのは、相手に否定されたからと言って相手を退けてしまうのではなく、そこから一歩踏み込んでみる。そして、よく話し合い、お互いの「こだわり」を分かり合うことが重要なように思った。
僕は偉そうに書いているが、僕はよく、ついつい否定されると熱くなってしまって、そこからだんまりという風になり、雰囲気が悪くなってしまいがちなところがあるので、今度からなるべく話し合うことを試みてみようと思った。
最後に、ユーミンと松尾レミの歌声に関しては、2人と意見が一致しなかった僕であったが、その2人と、唯一、意見が一致したことがあった。しかもほぼ同じ流れの中でだ。
それは、歌声の意見が一致しないまま平行線を辿っていくばかりの時、暫しの沈黙の後、相手が口を開いた。
「そんなことよりさ、この曲、いい曲だよな」
「・・・そうだな。いい曲だな」
音楽に始まった諍いだったけど、最後は音楽に救われました。
いい曲なんです。グリムスパンキー。よかったら聴いてみてください。
終わります。ありがとうこざいました。