苦虫を噛み潰したような顔の人が、苦虫に見える

予告篇だけ観れば大体全容がわかってしまう映画のように、本記事タイトルを読めば今回の記事内容は大体分かってしまう懸念を冒頭で暴露するという試みが、奇を衒ってないといったら嘘になる(聖なる夜に嘘などつけないだろう。まあ正直どうでもよいが)。そして、こういうアイスブレイクトークがそのうち全編に渡るかもしれないという懸念を今抱いたことも、暴露しておこう。
というのは嘘なので(聖なる夜に嘘などつけないだろう。まあどうでもよいが)そろそろ本題に入ろう。

この前電車に乗っていたら、ツカツカ急いで歩いている女性のカバンが、座席に座っていた、ある綺麗な女性の顔面に当たったのを目撃した。急いでいた女性は当ててしまったことに気づいている様子はなく、隣の車両にそのまま移動してしまった。
問題なのはカバンを当てられた女性の方で、つい先刻まで整っていた顔が、眉間に深い皺を作り、苦虫を噛み潰したような表情で、隣の車両に移動中の女性の後ろ姿を睨みつけていた。
正直、その睨みつけていた女性を醜いと思ってしまった。
カバンを顔面に当てたにも関わらず、それに気づかず先をいってしまう鈍感な女性より、だ。
その女性を見て、僕が苦虫を噛み潰した表情になりそうだった。

別の件の雨日和。これまた電車乗車中のこと。僕はつり革に掴まり立っていた。そして僕の眼下には今を時めく小池百合子風の上品な女性が、お上品に本を読んでいらした。 そしてその女性の隣には、イヤホンをしたぽっちゃり系とゴスロリ系をミックスしたような若い女の子が座っていた。そしてピックアップする場面は、ぽちゃゴス女子がカバンの中にきっとあるであろう何かを、ガサゴソ一心不乱に探し始めるところからスタートさせる。
熱心になにかを探しているぽちゃゴスの両太ももの狭間には、電車に乗る前に使用したであろう、雨に濡れた傘がある。
そしてその探しっぷりは、周囲の乗客を暴力的に釘づけにする引力を有している。とにかく一心不乱に、全身で探している、というかまるで格闘しているようにも見える。だから太ももに挟んでいる傘も徐々に傾いてくる。
隣の百合子氏は、チラチラ目だけを動かし隣を気にするも、まだ上品な表情は崩さない。
だが傘の方も限界を迎え、ついに傘が倒れ、隣の百合子氏の太ももに当たった。
そして百合子氏は隣のぽちゃゴス系女子の方を眼光鋭く一瞥した。
だが、イヤホンをしているぽちゃゴス系女子は相も変わらずカバンの中をガサゴソやっている(一体なにを探しているのだろうか)。まるで気付いていない。
そのことで百合子氏の表情が一層強張り、自身の太ももについた雨滴を大げさに払うふりを、相手に気づかせるようにこれ見よがしに行っていた。
だが、ポチャゴス系女子はまだ探している。
百合子氏は再び雨滴を払うフリをする。とても強張った表情で。まるで虫けらをみるように。
そしてようやっとぽちゃゴス系女子が探し物を見つけ、そして百合子氏の足元に倒れている傘に気づき、すいません、と申し訳なそうに言いながら傘を拾った。
その刹那、この子は何かがきっかけで、単純に自分の世界に入りやすい子なんだと、純粋なぽちゃゴス系な女の子だったんだと気付かされる。
かくして僕の中での百合子氏の善悪のジャッジが下され、悪者になる。
別段、善悪のジャッジなど下さなくてもよいのだろうが、恐らく人間はなにかと白黒つけたい生き物なのだろう。
ということはぽちゃゴス系女子は善人となり、なぜか可愛らしく見えてくる。
少し話を敷衍させるが、この「見えてくる」というのがミソな気がする。
客観物(対象物)自体にはなにも意味がない。価値がない。美醜などない。
僕ら主観の側でそれらを付与する(主観と客観の間のなにかを通して付与すると言ってもいいかもしれない)。僕らは何色かの眼鏡を常時掛けて世界を見ている。
しかもそれらの色は数分で、いや数秒で変わったりもする。
だから今回も、最初は僕の中でお上品に徹していた百合子氏も、徐々に変化を見せ、最後には、いやらしく相手を攻撃するお局様のような、そんなイメージの悪い役に様変わりしてしまった。
だが道理的に考えれば、ぽちゃゴス系女子が悪となるのだろう。彼女のドジッコさゆえに、雨に濡れた傘を百合子氏の太ももに倒してしまったのだから。さらには鈍感さゆえ、それに気づかず自分の職務を全うし続けてしまったのだから。
チャゴス系女子が傘を倒した瞬間、すぐに謝っていたら、百合子氏が僕の中で悪人になっていることなどなかったかもしれない。いや、どうだろう。仮にすぐ謝っていたとしても、百合子氏は同じように顔を強張らせ、わざとらしく太ももについた雨滴を払うかもしれない。その場合は変わらず百合子氏が悪人になる。
ではポチャゴス系女子がすぐ謝った時、百合子氏もにこやかに「大丈夫よ」などどお上品に大人の対応をしたら、今度はぽちゃゴス系女子が悪者になるのか。いや、そうは僕の中ではならないだろう。おそらく百合子氏のみが、やっぱりこの女性はお上品な尊敬できる人だと僕の中での百合子氏の好感度がアップするだけだ。
「悪者」、こう表現するだけで一般概念化されてしまう。単体化されてしまう。個人的に僕の目の前で起きている一連の流れなど無視して、独立して現れてくる概念。
すぐ謝まった彼女は、その一般概念としての「悪者」の定義に、僕の中で当てはまらなかったのだろう。例え、その前にカバンの中身をガザゴソやっていたとしても。変人には当てはまるかもしれないが。
ということは、実際起こった話で考えてみると、すぐには謝らなかったぽちゃゴス系女子と、それに腹を立て大げさに太ももの雨滴を払った百合子氏。これを僕は百合子氏を悪人にし、ぽちゃ系女子を善人とした。
ポチャ系女子が最後まで謝らなかったら、「善人」とはなっていなかった。だが最後に謝り、あーこの子は単純に気付いていなかっただけなんだと、そして、百合子氏のいやらしい行動がさらに、その彼女の純粋さを際立たせたのかもしれない(どうやら僕は「純粋であるならば善人である」と考えている節があるようだ)。
仮に、ぽちゃ女子が傘を百合子氏に当て、百合子氏が当てられても、そのまま顔色変えず読書を続行し、最後までぽちゃ女子が謝らなかった場合、仮に傘を当ててしまったことをぽちゃ女子が単純に気付いていなかっただけだとしても、僕はぽちゃ女子を「悪人」と判断するだろう。
なぜなら、「仮に単純に気付いていなかっただけだとしても」というのは、そのことが表面(客観世界)に出てこない限り、つまりそのことを裏付ける根拠、またはヒントの程度でもよいが、それらがでてこない場合、いつまでも「仮」の話なのであり、彼女は永久に「仮に気付いていなかっただけの、ただの女」のままなのであり、純粋な女とはならない。それが表面に出てこそ、初めて、「純粋」という言葉が使えるのだから。
だから、彼女は謝りさえすれば悪人ではなくなる。「純粋」さが付与されるから。
僕は、この一連の場面に出くわした時、ぽちゃ系女子がホントは悪いのに、なぜ百合子氏の方に悪者の感情を抱いてしまったのかと考えていたが、今回既述してきたことから考えれば、道理的善悪と、美醜的善悪(最初のカバンを顔面に当てられ、苦虫表情の女性や、百合子的行動のこと)が独立で存在していて、美醜的善悪の方が道理的善悪に単純に勝った、ということではないだろうか。または、論理感覚より皮膚感覚の方が勝ったと表現してもよいかもしれない。
つまりこういう一連の中では、色々に、そして別々に独立した問題が起こっているので、全てを関連づかせて考えるのは危険だということだ。
記事冒頭の懸念は、僕的には大分前に払拭されていたのだが、というより、書いていくうちに徐々に逸れていってしまったように思う。
ぽちゃゴス系女子の傘のように、傾いていって、誰かの太ももに当ててなければよいが。

了です。