ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

自分との距離感によって、呼び方は変わる。

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ここ数日間でぐっと春めいてきた感がある。
気温が暖かくなり、軽装で街行く人が増え始めた。
心なしか、皆ウキウキしているようにも見え、そこには、吉兆の萌芽を感じとれる。(余談だが、萌芽という言葉は、ポジティブなニュアンスを多く含んでいるように僕には思われる。恐らくそれは、芽吹くこと、つまり、なにかが誕生すること、またはなにかが転じること、に対して、「希望」を抱いてしまうことが原因であるように思う。ということは、僕達は自分自身の範疇を超えた、神的ななにかを無意識のレベルで盲信している、ということなのだろうか。まあ、今はそんなことどうでもいいか。てへぺろです。単にてへぺろを使いたいがためのカッコのような気がしてきた。てへぺろです)
そのような萌芽を感じとって、僕だってウキウキする。
油断すると、小沢健二の「痛快ウキウキ通り」を口ずさんでしまいそうになるくらいに、ウキウキしている。
というのは嘘です。

だがやはりウキウキしている人はいるようで、今朝、駅の階段を上っていると、ダダダッと後ろから軽快に駆け上がってくる何者かの勢いを察知して、僕が後ろを振り返るか振り返らないかの刹那、ビュッと僕を追い抜かしていく人がいた。
その人が僕を追い抜かす際にチラッと一瞥をくれた顔が、なんだかドヤ顔していたように思え、うわー、ウキウキがほとばしってやがるな、と思った。
ただ、僕は全然その行為に対しては苛立たなくて、何故かといえば、その人は紛れもなくご年配のお爺さんだったからである。
だから、「元気なお爺さんだな」と素直に感心した。
そして階段を上がり終え、乗換のホームに向かう行きしな、前にそのお爺さんが歩いていたのだけど、僕はその時自分の過ちに気づいた。

お爺さんじゃなくて、お婆さんだ。

先程は一瞬の横顔しか見れなかったため、お爺さんだと思い込んでしまった。
だが後ろ姿をよくよく見てみると体つきがお婆さんのまさにそれである。
まあこれは俗にいうお爺さんお婆さんあるあるというものだろう(俗にいうね)。
でも可哀想なことをした気持ちになってしまった。
女性なのに男性と間違われて傷つかない女性はいないだろう。
まだ僕の心の中だけに止めておけた思いだから良かったものの、これが実際に本人に伝わっていたらと思うと、胸が痛む。
僕は心の中でお婆さんに謝罪しようと、前を行く背中を見ていたところ、急にそのお婆さんが一瞬後ろを振り返った。その顔は、

やっぱ爺さんじゃねーか

この数秒の間に2回も展開してしまった。
その人はやはり紛うことなきお爺さんであった。
後ろ姿はお婆さんの体つきをしており、そしてこれが曲者だったのだが、頭にタオルを巻いていて、その巻き方がどうも、女性がよくやるお団子結び的に見えてしまい、余計な観念が頭を掠めてしまったのが、僕が間違えてしまった要因であるように思う。
かくして、これはこういうことなんだな、こういう展開で行くんだな、と納得了解して安堵したのも束の間、すぐ次のセンテンス(場面)では先程の了解した内容とは180度反転させて、すぐ読者をいい意味で裏切る、「進撃の巨人」のような展開をみるに至った。

ところで、僕は軽快に階段を駆け上がっていくお爺さんを、「元気なお爺さん」と思った。
何故か、「元気なだな」とは思わなかった。
何故だろう。
別に「元気な人だな」と言っても何の問題もない。
それなのに僕は「元気なお爺さんだな」と言いたい。

分かりやすく考えるために、この「人」を、「人間」に置き換えて考えてみる。

「元気な人間だな」

おかしい。
こうなると、そう発言した者の存在を疑いたくなる。
明らかに人間以外の何者かが発言したように感じられる。
まずこのことから分かるのは、同じカテゴリー(範疇)内に属す名称(この場合人間)を、その同じカテゴリー内にいる者には使用しない、ということである。

次に、お爺さんを、「元気な男性だな」と言ってもよさそうなものである。
だが、やはり「お爺さん」と言いたい。
先ほどの理論からいえば、僕とお爺さんは同じ「男性」カテゴリーである。
だから、「男性」、とは言いたくない、ということになる。
そして次のステップに行く前に、もう一つ理論を加える。それは、
自分との距離感によって言いたい呼称に優先順位がある、というものだ。
年齢の面から見て、お爺さん(推定70代後半)は、僕(20代後半)からはダイブ距離があるように感じられる。
その距離感が、全ての呼称段階を凌駕し、お爺さんを、「お爺さん」と言いたくさせているのだ。

さらに、もしそのお爺さんと親しくなった場合、そのお爺さんの名前を知りたくなるだろう。
距離が近いとその人のパーソナルな部分、つまりその人特有の部分を言いたくなる

今度は、小学生の男の子を例にとってみる。
小学生の男の子に「男性」とは言いたくない。
この時は、「小学生の子」と僕は言いたくなる。
「小学生の男の子」と言ってもいいのだが、僕とその子は、男性という同じカテゴリーに属していることから、男性部分は省略したくなる。
よって「小学生の子」となる。
これが「小学生の女の子」の場合であったなら、僕は、「小学生の子」ではなく、「小学生の女の子」と、言いたくなるだろう。

次に、僕と同世代の男性の場合はどうだろう。
僕は、「あいつ」、「奴」、「彼」と言いたくなる。
やはり、「男性」とは言いたくならない。
女性の場合であったなら、
「あの女の子」、「あの娘」、「彼女」と言いたくなる。

注意しなければならないのが、今ままで挙げた例は、僕が「言いたくなる」ものだ。
決して、他人に説明する時の例ではない。
他人に説明する際は、また少しややこしくなり、勝手が違ってきてしまう。
だからあくまで今回は自分の内だけに止めておく場合のみの使用方法である。

正直、お前なに長々わけ分からんこと書いてきてるんだ、という声が聞こえてきそうな懸念を考慮して、次で終わりにしようと思うが、この最後が書きたくて、今まで書いてきたと言っても過言ではない。
それは、名前を知っているのにも関わらず、「あの人」とか「⚪️⚪️(名前)という人」という風に、敢えて名前を呼ばないタイプの人達がいる。
とりわけ女性に多い気がするが、ざっくばらんに言って、これはその人のことが「嫌い」な場合に使用しているのだと思う。
これは、その人とダイブ距離を離した表現である。
つまり、その人と近くにいるのは嫌なので、できるだけ離れて距離感を保ちたい、つまり、「嫌い」、ということになる。
余談も余談なのだが、残念ながら、僕自身、中学生時代にとある1人の女の子にそう呼ばれていたのを知っている。
その当時は結構ショックだった。
友人によると、僕がなにか彼女にしたらしいが、僕には一切心当たりがなかった。

あれは、苦痛だったな。

まあ、どうでもいいんだけどね。

僕は、なんで女性が嫌いな人をそのように呼ぶのか以前から気になっていたので、今回これを書いていてその謎が解けました。
まあ、少し考えたら分かることなのだが。
長文駄文失礼いたしました。

てへぺろです。