ハイハイで散歩中

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怒り方、愚痴の吐き方によっては人は醜く見える

この前、電車に乗っていたら、30〜40歳代の男性が、恋人と思しき、同じく30〜40歳代の女性に向かって、語気を荒げながら、会社の後輩の愚痴を吐いていた。

「マジ若い奴ら仕事しねーし!マジなんなの?!オレが全部できるわけねーだろ!マジふざけんなよ!マジで」

それを聞いていた女性は、「そうだよね」と、会話が成立しているのかどうか怪しい同調の相槌を打って、男性の愚痴をより快調に進める役割に徹していた。

僕はというと、その男性をぶっ飛ばしたいという欲望と同義の怒りが込み上げてきているのを実感していた。

その男性に対して、怒りを抱いてしまうというのは道徳的には間違っているのかもしれない。

本当なら、仕事をしない後輩に囲まれたその男性に同情しなければならないのかもしれない。

だが僕は文脈を無視して、その男性の一側面にのみ反応し、そして怒りをこみ上げさせた。

もっと具体的に言えば、その男性の喋り方、語気の強さ、声量、乱暴な言葉、それら外面的ものにのみ反応し、怒りをこみ上げさせたということだ。

僕は、男性の話の内容(文脈)よりも、その瞬間の感覚を優先させてしまったといえる。

なぜそうなってしまったのか少し分析してみると、恐らく、その男性と僕には決定的な違いがあるのだと思う。

それは、その男性には怒りの対象物が見えているのに対し、僕には見えていないということだと思う。

そして、僕に見えているのは、その男性の醜い怒り方だけなのだ。

だから、僕にもその男性の怒る対象物が見えていたら、その男性に同情する気持ちが芽生え、その男性に対する、ぶっ飛ばしたいという怒りも湧いてこないのかもしれない。

 

・・・いや、どうだろう。同情もする可能性はあるが、やはり、その男性に対する怒り、または嫌悪感は拭いきれないように思う。

これは条件反射的なものかもしれない。道徳とか倫理とか理性などの力では阻止することができない、それらとは全く別の回路から生じる、目の前のものにただただ純粋に反応してしまうという反射、皮膚感覚。

これは恐らく、人間を見ているというより、物を見ているという感覚に近いかもしれない。

綺麗な物を見て綺麗と感じる。汚い物を見て汚いと感じる。・・・とても残酷な反応。

また、僕が、その醜い怒り方をしている男性を反射的に醜いと感じているということは、そう感じている僕を別の誰かが見て、今度は僕のことを醜いと感じるようになるということも充分にありえる。このような意味で、感情は伝染するのだ。

 

ただ、今回の場合は、その男性が愚痴的な、醜い怒り方をしているからそのように感じたのだろう。

怒り方にも幾つか種類があると思う。

ただ自分のストレスを発散させるためだけに悪態を吐いたり怒鳴ったりする怒り方はやはり醜い。

そうではなく、相手や内容とちゃんと向き合い考えた末の、真摯さを伴う熱意を帯びた怒り方は醜いとは感じないだろう。

真摯さは相手に伝わるものだと思う。

つまり、その人の内面は、口調や言葉や表情などの外面に出るということ。


「愚痴的な、醜い怒り方」と先述したが、勿論、愚痴を吐くなと言ってるのではない。そんなこと僕に言えるはずがない。

僕だって愚痴を吐くし、というか愚痴を吐かないで人生を送れる人の方が少ないと思う。

僕が言いたいのは、怒り方や愚痴の吐き方によっては、いくらその人が同情に値すべき可哀そうな目にあっていても、目の前にある醜いという外面に素直に反応してしまい、愚痴を吐いている人と同じように、それを聞いている人も醜くなってしまう、醜くさせてしまうんだということを念頭に置くのもいいのではないかということです。

まあ、あと、愚痴を吐かれた人は、ああこの人は単にストレス発散させたいだけなんだなと思い、華麗にスルーすることもいいのかなと思いました。

偉そうに言ってすみません。

終わります。