ハイハイで散歩中

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価値と関係

この前友人が、小説を読んでいるとその作家の顔が気になり、その顔が自分のタイプの顔でないとその作品自体の興味を失くすという旨のことを言っていた。
また別の機会では、武井壮好きの僕による、武井壮の魅力を友人に語っていたところ、「あの人・・・なんか胡散臭い」、という理由で、僕の熱弁を受け取り拒否していた。

人が作品に価値を付ける時、その作品自体、つまりコンテンツ(内容)そのものだけで価値を決定付けることができる人は、恐らく少ない。
例えば、小説や音楽作品の場合、その作品と併せて、作者の顔や、人柄、経歴などに興味をもたずにはいられない。
どんなに作品が良かろうが、その作品の周りにある付属物が、自分が設定した及第点に達していなかったら(達してさえいれば、そこからの点数が上昇する伸び代は開けているので、どんどん高得点になる可能性はある)、今まで作り上げた「良い」と思う印象は一気にご破算になる。
ただそれはしょうがないことだとも思う。
そもそも、その作品(芸術作品)自体、絶対(普遍)的価値などないのだし、もともと確固たる答えがないものを、自分の感覚のみで判断を下すのはあまりにも心許なさすぎる。さらに言えば、この世界の全貌を知る人は誰1人としていないのだし、僕たちはそんなあやふやな頼りない地盤の上に元から立たされている。なにかの拍子にその地盤は呆気なく崩壊することだってありうる。
そんなもともと頼りない地盤の上に立つ僕らが作った作品に、頼りない僕らがジャッジを下す。そりゃあ作品自体だけで、ましてや他人の創造物(自分のならまだしも)に価値を付けようとするにはあまりにも材料が少な過ぎる。だからこそ、他の材料(容姿、人柄、経歴、他人の意見など)に頼り、説得力を持たせ、信頼性を付与させ、腑に落ちる自分作りをする。
その内容云々、その作者が高学歴だったり、容姿端麗であったり(つまり自分の中の価値の物差し)したら俄然その内容に信憑性を帯び、受け入れる態勢の自分が出来上がっている。
そしてそのことから、価値は、その対象(コンテンツ)物のみだけで決定されるのではなく、他の物(人)との位置付けにより決定づけられる相対的なものだということが導き出せるのではないか。
そのもの自身だけでは成立しない。なにかとの関係の中でのみ成立する。
そして僕ら人間も関係の中で成立する。
自分以外なにも存在しなかったら、そこに「なにも(ありとあらゆる全て)」価値、否、意味すらも与えることはできないだろう。
僕たちは、無関係では生きられないのだ
と、思います。