先日、TBSラジオ「ハライチのターン」を聴いていたら、ハライチの2人が、人格が入れ替わる思考実験をしていた。
話しの導入こそ、お互いが「君の名は」的に入れ替わるという、とてもありきたりなものになっていたが、話を進めていくうちに、以下のような状況が導かれていた(本記事のこの先の展開上のため、かなり僕のオリジナルに変えてます。ハライチのターンリスナーの方、ご了承ください。)
岩井と澤部がぶつかる。
澤部はなんともないが、岩井の方が愕然としている。
岩井「おい、なんでオレが目の前にいるんだよ。あれ?オレは岩井の体に入ってしまったのか!」
澤部「いや、オレはオレだよ。オレが澤部だよ」
岩井「いやオレが澤部だよ!」
という状況。
つまり、2人の澤部が誕生してしまったのだ。
じゃあ岩井はどこにいったのか?という疑問は僕的にどうでもよくて、僕が思ったのは、澤部が2人誕生する状況というのは、起こりえないな、ということだった。
人間には「理解できること」と、「理解できないこと」というのがあって、「理解できないこと」というのが、人間の認識の限界である。
そして、人間が「理解できること」は、人間世界では、「起こりうる」し、「理解できないこと」は、人間世界では「起こりえない」。
したがって、「君の名は」のように、お互いが単純に入れ替わる状況、というのは理屈の上では理解できるので、それは「起こりうる」。
だから、「君の名は」を観ても、人は違和感なくそれを視聴できる。
しかし、澤部が2人いる状況はどうか?いや、より切実にするために、澤部ではなく、ここでは「自分」が2人いる状況と考えてみる。
ここで少し、「自分」というものについて考えてみたい。
自分が自分であると分かるにはどうすればいいのだろう。
人は、自分のことをどうやって他人という大勢の中から見つけだしているのか。
それは愚問である。
人は、探すという行為の実感なしに、自分のことを何故だか分からないが、自分だと分かるのである。
それは、他人との、外見だとか性別だとか位置関係とかとの区別とは全く関係なしに、「何故だか」自分と分かるのである。それもはっきりと。疑いようもなく。
このように考えると、自分が自分であるという認識の成立は、とても無根拠な頼りないものによって成り立っているのが分かる。たがその無根拠性がなによりもの根拠になっているのだが。
話を戻して、以上の結果、自分が2人いる状況というのは、成立しない、起こりえないものという帰結に至る。
なぜなら、仮に目の前の相手が、自分だと言い張っていたとしても、どう考えてもそれは、相手が嘘をついていると思わざるをえないからだ。
だって自分は、上述した無根拠性によって自分と証明されているからだ。
相手が自分だと言い張ってもそれはありえない。だってこの自分が自分なのだから。証明終了。という感じだ。
仮に、神様的な全知全能な奴がいたとして、そいつが、「いや、お前は2人いる」と言ったとしても、それは同じことだ。
その神様的な奴には真実が分かっていたとしても、人間レベルにはそれは分からない(というか、自分が自分であるということは、神様的な奴にも分かりっこないだろう。それが自分というものなのだから)。
人間の限界以上のことは、人間には分からない。
つまり、それは「起こりえない」のだ。
だから、君の名は的にお互いが入れ替わることは、可能的には「起こりうる」。
自分が2人存在することは、可能的には「起こりえない」。
1+1=3が起こりえないのと同じ意味で。
「自分」というものは、「世界」や「存在」や「今」などと同列に位置する。それ以上は分解することができない最小単位みたいなものなのだ。
なんてことを、「ハライチのターン」をきっかけに考えました。
と言っても、哲学者の永井均さんの著書を少しでも読んだことがある方は、極めて当たり前のことを言っているに過ぎないじゃないか!とご立腹だと思う。というがただ永井均さんの考えをなぞっているのと同じと言われても仕方ないです。
ただ、永井均さんの単なる受け売りではなく、自分の頭で実際に考えてみると、本を読んでいる時と比べて、より鮮明に理解できたように思うし、また、哲学って面白いな、と改めて思うことができました。
今回はなんだか自分だけが理解できるようなメモ的なものになって申し訳ないです。
僕のこんな稚拙な文章なんかより、永井均さんの著書を読んだほうがはるかに理解できると思うし、何百倍も深い話をされているので段違いに面白いです。少しでも気になった方はぜひ読んでほしいです。
以下に幾つかリンク貼っておきます。それでは!