ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

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有村架純を直視できない-全員が演技している世の中で-

1.気違いじみたドン引きな書き出し

僕は最近、あの有村架純こと、アリカスを直視できないでいる。映像に映る画面越しのアリカスは、僕が意識していることに気づいている様子はない。
ただ、自動販売機を住処とするアリカスは、僕が意識していることにあたかも気づいている様子である。
僕は駅で電車を待つ間、自動販売機で缶コーヒーを買う。そして、缶コーヒーが、ガコン、と音を立て吐き出されると、僕は排出口に手を入れ缶を取る。その時、問題が発生する。
缶を取る際、アリカスが目の前に出現する。僕は少し驚いた表情を作るも、実は缶が吐き出されたその時からこうなることを予測していた。
僕は白々しくも冷静を装い、そしてアリカスから目を逸らしながら、缶コーヒーを何かのミッションのように奪取する。
そして、アリカスの視線に気付かない振りをしながら、缶コーヒーを飲み始める。だが、ここで限界突破しなければいつ突破するんだ?って程に、瞳の可動域の限界まで、横目という横目を使って、アリカスを盗み見る。そして、コーヒーを飲み干すと、ゴミ箱まで歩いていき、できる限りのスマートで流麗な動作でもって、缶を投入する。そしてその場から立ち去る時、チラッと一瞥をくれる。

確かにアリカスは僕を見ている。

だが、

確かにアリカスは僕を見ていない。

お茶と一緒に並び、おにぎりを持つアリカスは、幸福そのもののようなほっこりした笑顔で、直視している。

だって広告だもの。
広告ガールだもの。

2.言い訳

こんな気色悪い、まさに気違いな内容を書くのも勇気がいるなと思ったのは最初だけで、書いていく内に筆が捗ってしまい、僕の内に気色の悪いストーカー性が内在していたのを完全に自覚してしまう寸前のところで、現実世界に復帰して今に至る。
でも、あの駅の自動販売機、そして商品受取口の真上にある広告ポスター、あれは業者が、イタイケナ男性をアタフタさせるためのイタズラをしているとしか思えない。
僕は、男性が買い求める種類の象徴的ともいえる飲料、そう、缶コーヒーの排出先が、決まって広告ガールこと、アリカスこと、有村架純と顔面が対峙してしまう丁度いい配置に落ちるよう故意的に仕掛けているのではないかとかなり真剣に疑っている。
でも今になって、実はどこに落ちてきても、僕が甚だ勝手に、そして一方的に(当然だが)、アリカスを意識しているに過ぎないのかもしれない、ただのバカだったのかもしれないと思い始めた。
というか、今回はアリカスだとか、自販機の陰謀だとかそういうものではなく、「演技」ということを発端として、色々考えてみたいと思う。

3.ジェスチャーの連続(演技)

上記の中の僕は、アリカスを意識してカッコつけた。これは、「カッコつける」という演技をしたということだ。
僕が好きなアメリカの作家、フィッツジェラルドの著作「グレート・ギャツビー」に、
「もし人格というものが、人目につく素振り(ジェスチャー)の途切れない連続であるとすれば  」(村上春樹訳)
という文章が出てくる。
ジェスチャーの連続。
僕は、この「ジェスチャーの連続」を、「演技」とも言い代えることもできると思う。そしてさらに「演技」は、自意識が働いているもとで実行可能となる。
・異性を意識した時。
・会社の上司・後輩・同僚を意識した時。
・家族を意識した時。
・他人を意識した時。
・自分を客観的に意識した時。
これらの時、自分は何者かを演じている。
ただ、なにかに忘我するほど熱中している時は自意識は登場できないし、したがって演技を自覚することはできない。ということは、忘我している時は演技をしていない、と「いえる」ことができる。
なんでもそうだが、今やっていることを意識しようと思ったら、その「やっていること」から一旦出なければならない。出て、離れたところからしかその全貌を見ることができない。
フィッツジェラルドの言葉をもとにすれば、人格や個性とは、なんだか絶対的で不変なように捉えがちだが、実は相手によって色々変えられる相対的なものと考えることもできるのではないだろうか。
だからそういう意味で個性は変えられるし、新たに作ることもできるのだと思う。
僕は・私はこういう人
という風に決め付けることは原理的にというか、本来の意味では誤った使用方法なのかもしれない。
しかし一方で、人間は思い込むことで前に進むことを可能にする。
つまり、ここで矛盾が生じる。

「『僕の個性はこれだ、という思い込みは捨て、なにも考えずに歩き出そう』
と、思い込みながら歩き出すことになる。
つまり何も考えないでいることそれ自体を個性と呼べてしまう」

などという言語ゲームに帰着してしまう。
このような言語ゲームは不毛だと思うが、僕は、個性の性質の観念と、人生を主体とした「思い込む」という観念を比較した時、後者の観念の方が、上位の観念のような気が直観的にする。
つまり「人生は思い込み」という観念が「個性という性質」を飲み込むといった感じか。まあ、とにかく僕は、思い込んで前に進め!派なので、そのように今は結論付ける(ハッキリしなくてすみません)。

4.何者

人間は常に何者かになりたがっている。個性の証明もそうだし、肩書きの取得だったり、もっと言えばアイデンティティの確立なんかもそうだ。自分を何者かに仕立て上げたいのだ。これは「演じる」ということと同義のように思う。
ということは、演技は自意識下で発動することから、自分は何者であるかという自問、そして証明なども自意識が原因であり、つまり、他者の存在がそうさせるのではないのだろうか。
仮にこの世界にたった1人だけだったとして、はたして自分は何者か?などと自問するだろうか。
今の状態から目を閉じると、突然自分の記憶が消失し、目を開けたら周りには記憶が消失する以前の知人がいて、自分に対して、記憶が消失していることを教えられたら、自分は何者なのか?と自問するように思う。
だが、最初から自分1人だけの環境で、自分が人間であると参照できるものすら皆無な場合、自分は誰だ?と自問するだろうか。
まあ極端な例になってしまったが、僕が言いたいことは、他者がいることが原因で、自己の存在を問うたりしてしまうのではないかということだ。結局自分を理解するには、他者を参考にするしかない。
先述したが、そのものを理解するには、そのものから一旦出て、外から見なければならない。
この場合自分から出るというのは不可能なように思えるが、他者を観察するというのは、同じ人間というカテゴライズの仕方をした時、自分(他者)を外から見ているのと同じになる。
自分先行ではなく、他者先行なのかもしれない。他者を見て、初めて自分が誰なのかを考え始めるのかもしれない。そして、成長していくにつれ、他者の影響を受け、何者かになりたいと渇望し、なにかの役を演じることになるのかもしれない。
この世界の全員が何者かを演じている。自分という頼りなく、心許ない存在を彩るために。

5.最後に

最後に、僕は別に有村架純こと、アリカスのファンというわけではないです。かわいいと思うけど。

了です。