ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

渋谷スクランブル交差点-秩序と無秩序のスペクタクル-

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この前、というかたまに意識してしまう話で冒頭を始めるが、御小便しようとトイレに入ったら誰もいなく、目の前には5つの立ち小便用の便器が視界に現れる。
僕は最初真ん中の便器でしようとしたが、不意の思いつきでその隣の4番目(右から数えて)の便器でしてみようと真ん中の便器を通り過ぎ、4番目でしようとした。
だがやはり4番目というのはキマリが悪い感じがして、さらにその隣の5番目、つまり1番奥の便器ですることに落ち着いた。
ここで重要なのは、4番目の便器でキマリが悪くなった時、3番目つまり真ん中の便器に引き返すことはせず、歩く流れに乗っ取り、そのまま5番目の便器を選んだところである。
僕は無意識に「歩く流れ(惰性)の秩序」を作ってしまっていた。
その秩序の中では、引き返すことはご法度で、ある一方向を前進することしか許されていない。
もし引き返してしまったら、その行動はとてと不可解な行動に映る。
ではなぜそのような秩序を作り出してしまうのか。
それは他者の目を想定しているからだろう。
秩序は他者を意識した時に顕れる。
そして秩序の中での行動を迫られる。
別に自分1人きりだったらどんな行動をとろうが構わないはずである。
いくらでも引き返したって構わない。
他者が自己の行動を制御するのである。

では、なぜ人間は秩序に反する行動をとると、不可解な感じを抱くのだろう。

例えば以下の整数の羅列

2、3、5、?

「?」に入る数字は、素数に従って「7」かもしれないし、または「+1、+2、+3」と増えていく法則かもしれないので「8」かもしれない。
重要なのは、人間は「?」に入る数字を、つまり「答え」を出そうとするということ。
もしかしたら人間は、そのような原理のもと、世界を観ているのかもしれない。
必ず答えがあると思って世界を観る。
答えを出すためには、法則、または「秩序」が必要になる。
人間は「秩序」なしでは生きていけないのかもしれない。
あるいは、「秩序」の中でしか生きていけないのかもしれない。

 

先日、ラジオの東京FMでやっている「TIMELINE(タイムライン)」というニュース番組で、ワールドカップに関連させるかたちで、「なぜ人は(渋谷)スクランブル交差点に集まるのか」、という問題を、水曜日パーソナリティのブロガーのちきりん、アナウンサーの古賀涼子、北海道大学大学院 の岡本亮輔准教授のお三方で考えていた。
別に僕はそんなの、若者が集まりやすい渋谷という街柄と、あと駅前だから多くの人が利用するのではないか、と単純に思って、そう大そうに構えて考えることじゃないし、もしかしてネタがないのか、などと思い、少し斜に構えて、そんなに最初は真剣に聴いてはいなかった。
だが、岡本亮輔准教授さんの、渋谷にスクランブル交差点が導入された当時の話あたりで、結構面白い話が出てきて、次第に興味が湧いてきている自分がいた。
渋谷にスクランブル交差点が導入されたのは、1970年代頃(Wikipediaでは1973年と明記してある)で、従来の交差点では多くの歩行者が信号待ちの際、人が歩道に溢れかえってしまうほど過多な状態に陥っていたらしく、そのような状態を緩和するため、じゃあ一気に縦でも斜めでも渡らせてしまえ、ということで現在のスクランブル交差点ができたということだ。
そして興味深いのが、当時はまだ斜めに横断するという文化が日本人には根付いていなかったらしく、新宿のスクランブル交差点が導入された際(Wikipediaでは1971年)、警視総監が、スクランブル交差点の渡り方のお手本を利用者に見せたというから、驚いた。
しかし、「この斜めに渡る横断方法は違法じゃありませんよ」という国家からのお墨付きを得たにもかかわらず、以前として、斜めに渡らず、1回縦に渡って、そしてまた縦に渡るという、「直角横断」をする人も当初はいたそうだ。
それほどまでに横断に対する日本人の秩序観が固定されていたことが分かる。
「直角横断」より「斜め横断」の方が合理的なのは自明にも関わらず、従来の秩序を壊し、ある種の無秩序の中に自分を入れる行為が中々受け入れられなかったのだろうか。

そして番組内のこの議題の帰結としては、今や若者の街と化した渋谷という場所、そしてそのようなイメージを持ったスクランブル交差点にさらに、「無秩序=自由」さというのを見ていて、ワールドカップやらハロウィンやらの(どこか「無秩序=自由」さのイメージを持つ)イベントの際は、多くの人が集まるのかもしれない、と、大体そのような感じて締めくくっていた。

また番組最後に、リスナーか番組関係者かは忘れたが、この議題についての意見として、どこか分からない場所で騒ぐより、渋谷スクランブル交差点で騒いでくれていた方が分かりやすくてまだいい、的な意見が届けられ、それに対してちきりんが、「渋谷スクランブル交差点」という既に若者が騒ぐといったイメージで定式化された場所、しかもわざわざ警官の目が届くような場所で騒ぐというのは、誰かに「ここで騒いでいいよ」と場所を決めてほしく、そのうえで騒ぎたいという、ある意味その考えはマトモな考えで、それは、「秩序立った無秩序な行為をしたい」というこではないのか、というような旨のことを言っていて、確かにな、と思った。

現在では、海外観光客の観光スポットとなっている渋谷のスクランブル交差点。
海外観光客がその光景をみたら驚く人もいるらしい。
みんなが信号をきちんと守っている!と。
番組中ちきりんが、スクランブル交差点というのは、秩序と無秩序が混在したスペクタクルな場所だという風に言っていた。青になったら人々が一斉に渡り、赤になったら一斉に止まるという秩序。その秩序の中で、斜めに渡るなどの自由な、無秩序な横断が許されている。その光景がひっきりなしに行われる。それはスペクタクル。というわけである。
確かにそう考えるととても興味深い場所だなと思った。

最後に、今年の1月に大雪が降った。そして雪が止み、天候が落ち着いて外に出た時、横断歩道に雪が積もってしまっていて、横断歩道としての機能を失っていた。
僕は、その時、「うわ、秩序が崩壊してる」と思った。
ただ、そのことにより多少のワクワク感を抱いてしまった。
抱いてしまったが、それと同時に、恐怖感も抱いた。秩序の崩壊に対する恐怖感を。
やはり僕らは、秩序の上に日常を送っているのだろう。

そして、他者に認められて秩序は成り立つのだと思う。
そのような意味では、僕らは他者がいなければ生きていけないのだろう。
なんか冒頭の謎のトイレの話を回収できた気がする。まあいいか。

僕らは秩序があるおかげで、スクランブル交差点を横断できるし、ワールドカップも観戦できる。
さて、本日夜、ベルギー対イングランドの3位決定戦がある。
見逃せない戦いが、今、始まる。

僕はあまりサッカーに興味がないのだが、このブログの終わり方が分からなくなって、強引にぶっ込みました。

ありがとうございました。