ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

続・堕落論ってか。


前回の記事で、電車に乗り合わせた酔っ払い野郎が、スマホを落としたのに気付かずそのまま爆睡し続けており、それを僕が拾ってあげようかどうしようか逡巡した結果、結局拾わずに電車を降り、ひどく罪悪感に囚われたという話を書いた。

www.teheperow.com


そして、先日、同じ場面にまた遭遇してしまった。

酔っ払い野郎は、空席があるにも拘らず、地べたにしゃがみこんで爆睡しており、案の定、スマホをガコンと落とした。

僕は、その光景を見て、思わず、「めんどくせぇなあ」と嘆息混じりにぼやいてしまった。

そう、実際に口に出してしまっていて、近くにいた男性がビクッとしていたので、僕も思わず自分の行動にビックリした。

恐らくそれほどまでに、本当にめんどくさいと思ったのだと思う。マジめんどい。余計な仕事増やすなと。

だが、前回の時とはだいぶ心持ちが違っていた。

僕は前回ブログでウダウダと気違いじみた文章を書き連ねた結果、次こういことがあったら、どういう状況であろうと、スマホを拾ってあげようという決意表明をして、ブログの結びとしていたのである。

だから、今回スマホが落ちた時点で、むちゃくちゃめんどくさいとは思ったものの、自分の取るべき行動は一択しか思い浮かんでいなかった。選択肢が一つしかないというのは、かなり楽であり、気持ちの余裕を随分ともたらした。


僕は自分の降りるべき駅に到着する間際、未だに下品に放り投げられているスマホを拾い、爆睡野郎のふっくらお腹めがけて投げ込んでやると、少しビクッとしたものの、またそのまま眠りに勤しみに行ったので、僕はそのまま開かれたドアを潔く降りた。

前回は降りた瞬間から罪悪感に苛まれたが、今回は清々しさに包まれながら、夜の帰路を歩くことができた。そして、大してその出来事に執着することもなく、違うことを考えることもできていた。

こんなにも取るべき行動が違うだけで、見える世界が変わるものかと思った。

しかし、僕が今回このような行動ができたのには、前回の失敗というか、罪悪感に囚われたことが背景になっているのではないか。失敗からの罪悪感に囚われることで、自身を省みることができ、色々なことに気づくことができた、いわゆる「堕落した」ことにより到達することのできた、「堕落からの浮上」を可能にしたのではないだろうか。

そう考えると、前回の失敗も、僕にとっては必要なことだったのかもしれない。

 

だけど、この考えは、あまり良くないことのようにも思う。

この考えは、失敗や過ちを正当化させてしまうことを癖付けてしまうのではないだろうか。

意図的な失敗。

それはとても気持ちが悪い。

いや、どうだろう。

そもそも「意図的な失敗」などという失敗がありえるのだろうか。

意図的に行った失敗の中身に、浮上を推進する「発見」などないのではないか。そこから生まれるプラスな気付きなどないのではないか。

意図的ではないからこそ、その行いは「失敗」になるのだろうし、そして、自省・反省、罪悪感に囚われグチグチ悩むことが可能となるのではないだろうか。

だからこそ、「失敗」は真に悩み考えたものにとって、「意味のある」行為に結果的になるのではないだろうか。

そのような意味で、「正当化させる失敗」、または「意図的な失敗」という「失敗」はありえないと思う。

 

まあなんにせよ、「失敗」→「自省・反省(堕落)」→「前進(浮上)」、この流れでオッケーだな。

 

なんか自己啓発っぽくなってしまって気持ち悪いと自分でも思うが、でも前回ブログでグチグチ書いたことが、今回、このような日の目を浴びたことが僕にとって結構嬉しかったので、なんかノリで書いてしまいました。


あと、前回読み終わっていなかった「堕落論」ですが、その後ちゃんと読み終わりました。

だからなんだって話しですけどね。

終わります。ありがとうございました。