久々にくらってしまった。「響け!ユーフォニアム」。第3期最終楽章。堂々完結。とても良かった。
暫く「ユーフォ」ロスというか、いやロスというより、余韻で中々身動きがとれなくなったような症状になり、そんなアニメとはやはり人間をある種不健康にする副作用をもたらす劇薬だななんて思った。
「響け!ユーフォニアム」シリーズは第1期→第2期→劇場版数作→第3期とあり、2015年から続いてきた京都アニメーション制作の青春学園アニメである。
内容は、吹奏楽部に情熱を注いだ、主人公・黄前久美子の高校1年生〜3年生を描いた成長物語。そう、これは紛れもなく黄前久美子の成長物語で、だからこそ視聴者は、第3期12話の原作歴史的大改変に動揺し、選挙期間中の候補者もびっくりの久美子の演説に心打たれてしまうのだろう。
橋本徹さんがテレビで、選挙は政策の中身も重要だがなによりも「情熱」が大事だと言っていて、良くも悪しくも、橋本論に納得せざるをえない効果を僕にもたらした。というか、僕のことはさておいて、物語の中の吹奏楽部員には間違いなくあの演説は正解だったのだろう。だってみなが一致団結しましたから。奏(かなで)は複雑だっただろうけれど。
本作は、毎年毎年部員のメンバーが変わり、それ故その年の部員にしか出せないアンサンブルを作り出し、その上、年に1回のコンクールに向け努力し情熱を注ぐという、学生時代にしか味わえない、「吹奏楽部」という、「部活」というものの特殊性に再三言及している。
そしてそれがある種の魅力を生み出すいうことにも。僕もその魅力に少しは感化されてしまった。だって学生時分にもし自分が吹奏楽部員だったらどうなってただろう、とか夢想してしまったのだから。
「部活」といってもそこは限定された特殊な「社会」でもあり、その中の秩序をどうやって保つか、先輩後輩との関係、実力能力主義を実装する北宇治高校(久美子達の高校)ではその均衡を保つことは容易ではない。物語の大半は正直そのことに終始している。恋愛要素や、同性同士の友情を若干超えているような百合的描写も多少は散見されるが、本作においてあまりにもその要素はサブ的要素だと言わざるをえない。
なぜなら、今まではそのような様相ではなかった本作において、唐突に第3期12話のあの事件が起こった。そしてその要素が加わったことによって、一気に物語の様相が変化し、真の姿、全貌が露わになったというか、「実は本作はこういう作品でした」という、最終回を目前にし、作品の根幹が明示されたのが確実に12話であり、それは久美子の成長記録が物語のメインテーマになっていることを視聴者は否が応でも知るに至ったからだ。
以下、そのメインテーマが明かされることになった改変部分を含みながら記すので、まだ未視聴の方はそれを考慮の上、お読みください。
本作を語る上で、12話の改変を語らないことには、この作品について何も語っていないのと同義であるほどに、この回は重要だと思う。
北宇治高校吹奏楽部は、先輩後輩関係なく上手い人がコンクールメンバーに選ばれる実力能力主義の方針をとっている。
しかも久美子が3年生の代になってからは、大会毎(府大会→関西大会→全国大会)にメンバー選考会が行われることになった。
原作小説・アニメ共に、全ての大会で久美子と転校生・黒江真由はユーフォニアムのパートメンバーに選ばれている。問題なのは、トランペットメンバー・高坂麗奈との華型ソリパートである。府大会では久美子がソリに選ばれ、関西大会では黒江真由が選ばれる。ここまでは原作もアニメも同じだ。
しかし問題は全国大会のソリパート。
原作では、久美子がソリに復活し、念願だった全国大会での、親友・高坂麗奈との吹き合いを見事に叶え、金賞をもらって大団円という結末になる。
しかしアニメでは、全国大会のソリは、久美子と黒江真由、どちらも甲乙つけ難いほどに実力が拮抗し選ぶのが困難と判断した顧問・滝先生の提案により、部員全員が聴いて部員全員が判断する公開オーディションを行うことになった。
しかも、部長である久美子に吹いてほしいという私情を部員みんなに挟んでほしくない、本当に上手い方を選んでほしいという思いから、みんなにどちらが吹いているか分からないような状態でのオーディションにしてほしいと、久美子自ら提案していて、そしてそのようなオーディションに実際なった(これにより、僕ら視聴者も目隠しされたことになり、最後までどちらがソリに選ばれるか分からない、北宇治吹奏楽部員と一緒の気持ちになるという、そんなニクイ演出もしているのだ!)。
そしてオーディションは音だけの判断で行われ、投票の結果は、久美子、黒江真由ともに同数。。。と思いきや、伴奏していたトランペット奏者・高坂麗奈の票がまだ入っていないということにみんなが気付き、久美子の親友・麗奈の票でソリが決まってしまうという、これまたニクイ演出が炸裂する(勿論麗奈もどちらが吹いているか見えていない状態で票を入れる)。
そして麗奈は黒江真由を選ぶ。久美子の敗北。全国大会、高校生最後の大会で部長が、主人公が敗北する。
久美子は唖然とし動揺する。しかしその刹那、以前滝先生との「理想の大人像」の会話を思い出し、「本当の意味での正しい人」になりたいと強く思った自分を思い出し、そして覚悟を決め、強く前に踏み出す(かっちょイイ〜)。
「これが今の北宇治のベストメンバーです!」
そう始まった短いながらも気高い演説は、真に胸を打つものがあった。とても部長然というか、この国を統べる長のような雰囲気があり、見事に部員をまとめていた(その中でやり切れない奏が泣いていたのもエモかった)。結果的に、ユーフォニアムシリーズを通して、僕が1番好きなシーンになった(因みに次に好きなシーンは第10話の、あすか先輩に助言をもらって、その帰りしな、「正直に、言葉にして・・・」と自分を鼓舞しながら走っていくところと、その後の関西大会演奏直前のチューニング室での、またしても久美子の演説で部員たちをまとめるところだ)。
余談だが、この光景はどうしたって第1期の、当時1年生だった高坂麗奈と3年生の中世古香織のトランペット・ソリオーディションを想起させる。そしてその時は高坂麗奈がソリに選ばれ、香織先輩が悔しい思いをし、その香織先輩を慕う2年生のデカリボンちゃんこと吉川優子がむちゃくちゃショックを受けていて、第1期から見続けている主人公・黄前久美子に感情移入しきっている僕達視聴者が、初めて優子の気持ちを理解する瞬間でもある(なんてサディスティックな仕掛けだ)。
そのオーディション終了後、奏が久美子に泣きつき、それを母親のように慰めるシーンも良かったし、なんと言っても、この回終盤のエンドクレジットと共にお送りする、久美子と麗奈のサンクチュアリとも呼ぶべき「大吉山」での、両者号泣本音ぶつけ合いシーンも素晴らしかった。
麗奈は、実は久美子の音を判別しており、それを分かった上で、金賞を取れる音として黒江真由を選んでいたのだ。最後の大会は大好きな久美子とソリを吹きたいとこれまで再三言ってきた麗奈だったが、自分の正しさをぶらすことなく最後まで貫き、そして結果的に黒江真由を選んだ。そんな自分の複雑な心境を言語化できずに号泣という形で思いが表出され、ごめんなさい、と、か弱く泣く麗奈の姿もまた新鮮で良かった。
久美子も、麗奈が聴き分けていたことは承知であり、それ故にちゃんと実力で黒江真由に敗北してしまったんだと悔しさを露わにした。「死ぬほど悔しい」。そしてこの気持ちを誇りにしたいと。オーディション会場にいた時の部長然とした振舞いとのギャップに、これまた感動した。
もう〜めっちゃええやん!なにこの展開!めっちゃエモなんやけど!むちゃくちゃ良い!長々書いてきたけど、これに尽きる!むっちゃ良かった!!!
つまり本作はこの12話によって、挫折することもあるがそれでも前に進め、その苦い経験も全て自分の糧にし生きていけ。社会と、現実と、向き合えと。
そういうことがメインテーマになっているんではなかろうかと思った次第です。
最終回13話は、3期になって演奏シーンが少ないと言われていたことへのアンサーとでも言わんばかりに演奏シーンがあり、そして見事金賞も獲得し、そして後日談で久美子が北宇治高校に先生としてカムバックするというサプライズもあった。
正直12話が凄すぎて、最終回は下火になっている感は否めない。でも僕としてはそれでも大満足だった。
僕は見終わってから、様々なユーフォに関する感想動画を主にYouTubeで見たりした。そして、とある動画、評論家・批評家の宇野常寛さんらが語り合う動画に出会った。
そこでは12話は傑作としつつも、最終回のラスト久美子の先生カムバックに対して疑問を投げかけていた。
宇野常寛さん曰く、この作品は、京都アニメーション史というか、つまりそれはオタク史論的な文脈で語ることができるという。
京アニの代表的な作品「涼宮ハルヒ」→「らきすた」→「けいおん」を引き合いに出し説明している。
まず「涼宮ハルヒ」。当作品は『セカイ系→日常系』として言い換えることができる。つまり、「ハルヒ」は、宇宙人とか未来人とか超能力者とかと関わりたいと言いつつも、実は単に友達が欲しいだけで、それが主人公・キョン達などのSOS団の活動の中で叶えられ日常を謳歌していく。
これはオタクの本音と建前みたいな話で、俺たちは虚構が好きなんだ、それで生きていくんだというのが建前で、本音は、スクールカーストのない世界で単に青春していきたいだけなんだ、ということを突き付けたのが「涼宮ハルヒ」であると。
次に「らきすた」になると、オタク同士の会話で終始盛り上がり、そこにはスクールカーストもなく、ただただ日常を楽しく過ごしていく。つまり「日常系」の始まりである。
「けいおん」になってくると、もはやスクールカーストどころか、オタク性もなくなり、ただただ可愛い女の子達が部室でわちゃわちゃやっていると。そこには物語もなく、日常を極限まで「美化」した光景だけがあると。
言ってしまえば、これらは全て現実の否定、浮き沈みのある成長物語の否定である。
それに対し、「ユーフォニアム」は、現実に向き合い、成長物語を提示している。これはセカイ系や日常系の敗北だ。そして「ユーフォ」は今後オタク史論上においてかなり重要な作品になるんではないかと言っている。
しかし、である。京アニがネクストステージに行きつつある兆しがあることは良いのだが、ならば、最終回のあの「久美子先生」はなんなのか、と。
つまり、ご都合主義的で、周りの空気を読む全体主義のボドムアップ型(=学園型)の結論になるのではなく、能力のある人が選ばれるトップダウン型(=学園の外部型、現実や社会と向き合っている)の結果に帰結している「ユーフォ」ならば、久美子は先生になって「学園」に戻る(とどまる)のではなく、「学園」の外で、この先の人生を送るという結末の方が良かったのではないか。
結局「学園」に戻ってきてしまうことは、人生のピークが学生生活にあったということになり、本当は、学校を卒業して社会に出てからだって楽しいことはたくさんあるはずだ。
だから主人公・久美子には「学園」には戻ってきてほしくなかったと。
しかし、本作において、唯一その希望となる登場人物はいるにはいる。僕も好きなキャラの「あすか先輩」だ。「あすか先輩」は、みんなの憧れであり、久美子もそれに例外ではない。しかし「あすか先輩」は、はっきり言って部活のことより私情を優先するアウトローな人物で、その最たる象徴的エピソードが、久美子達最後の大会を見に来なかったというものだ。
この「あすか先輩」がいるのといないのとでは、物語の色合いもだいぶ変わってくると思う。
僕は正直、久美子が先生になって戻ってくるという結末に満足している。宇野さん達に指摘されるまで全く違和感を覚えなかった。
だって、久美子だったら先生を職業にしそうだったし、また、久美子のような挫折を味わっている先生が吹奏楽部の顧問(まだ副顧問だったが)になってくれるのは、生徒も安心感があるのではなかろうか(この意見は他のYouTube動画で、いいおじさん達が集まって感想を嬉々として語り合っている中での発言で、僕も共感した)。
正直、滝先生は、ややドS気味コミュ障な人物だと思うし、久美子がいなかったらあの年の北宇治吹奏楽部は崩壊していたと思う。
そういう意味でも僕はあの結末で良かったと思っている。
勿論、違う結末になったら、それはそれで新たな批評性が出てきて、より物語に深みが増すのかもしれない。それはそれで面白いとも思う。
しかし、とにかく、僕は別にあれで良かったと思っている。
そう、とにかく、長々書いてきたが、僕が言いたいことは、この作品がめちゃくちゃ良かった!素晴らしかった!エモかった!ということなのだ。
ということで、この作品を生み出してくれた京都アニメーションさん、原作者・武田綾乃さん、関係者各位、ありがとうございました。
長文失礼いたしました。終わります。ありがとうございました。