途中で面倒臭くなって放り投げていた、坂口安吾の「堕落論」をまた読み始めてしまったのがマズかったのだろうか。
僕は電車の中で、「堕落論」をキリの良いところでやっつけて、スマホをいじいじしていたら、ガコンッ、という鈍い音が向かいの座席から聞こえた。
経験則から嫌な予感がしたが、案の定、床にスマホが落とされていた。
その持ち主は絶賛爆睡中で、ダランと腕を垂らし、片方の耳だけにダランとかけられたマスクの脇から、ダランと開いた口を周囲にというか僕に見せていて(というか一方的に僕が見ているだけなんだが)、なんだかポケモンのベトベターみたいな印象を与えた。
堕落しとるわ。
坂口安吾は色々な意味で堕落を推奨している。
生きよ堕ちよ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。(省略)そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
だがその堕落っぷりは、時に人に不快感や迷惑を与える。
目の前の爆睡野郎を視界に入れてしまったが最後、僕の未来の行動範囲に、甚だ勝手に、ありがた迷惑なオプションが付与されてしまった。
1.スマホを取ってあげるか。2.さり気なく爆睡野郎を起こしてスマホを落としていることを気付かせるか。3.そのまま傍観か。4.遠くから念を送り続け起床させるか。5.6.7・・・・・・。
めんどくさい。
なんでそんなこと考えなければあきまへんねん。
だいたいなんでこのオレの目の前で「それ」が起こるんだ?なんでこのオレに発見されやがるんだよ。
僕はこのような状況の時、毎度のことながら、この偶然の出来事を、まるで必然かのように解釈し直してしまう。
なんでいつもオレの目の前なんだよ、と。
少し考えれば偶然だということが分かるのに、その時いつもそれを失念している。
だから僕はまず、そのような場面に遭遇してしまったら、その勘違いの必然性と、ありがた迷惑なオプションの付与に、心底煩わしさを感じ、そして腹が立つという、身勝手な身体の仕様となってしまっている。
そして次に、そいつの容姿で頭がいっぱいになる。後々の言い訳のためにそうなるのかもしれない。
落とした野郎は一体どんな野郎なんだ、と。
今回の場合、既に記している通り、ベトベターな野郎で、しかも暫く観察しているとグラデーション的にマヌケ面が増大してくる。
顔は言わずもがな、腕や足やマスク、落ちたスマホ、その雰囲気全てがマヌケに思えてくる。
かくしてベトベターはベトベトンに進化した。
そして僕はそれを言い訳の材料に、自分を正当化させる材料に使用する。
先ほど、様々なオプションが付与されて面倒臭いと言ったが、どうやら選択肢はハナから一択のようだった。
傍観に徹しよう。
爆睡モンスターベトベトンがマヌケだから悪いんだ。
そのような選択。そのような無慈悲な言い訳。カッコ悪いぜ、全く。
僕は恐らく単純にムッチャ面倒臭がりなだけなんだと思う。
動くのがダルイ。差し詰めダルダル星人だ。ネーミングセンスもカッコ悪いぜ、全く。
あと、このご時世下も、僕の怠慢精神に若干拍車をかけていると思う。
コロナはあらゆる弊害を生み出す。
他人のスマホを触ることを躊躇(ためら)わす。他人に近づくことを躊躇わす。
「物理的な距離はとっても、心の距離までとってはいけない」
この前ネット記事で見かけた言葉、今後の良い標語になりそうだ。
あと僕はこの時点で、必ず2つ失念していることがある。
まず1つ目は、他人の「文脈」、「コンテクスト」というやつだ。
ベトベトンがなぜスマホの落ちる「ガコン」という音にも気付かずにそのまま爆睡し続けているのか。彼がなぜベトベター・ベトベトンになってしまったのかの経緯、背景を僕は皆目無視している。
もしかしたら無茶苦茶仕事が忙しく、疲労困憊しているのかもしれない。もしかしたら、不幸の真っ只中で、お酒に溺れないと人生やってられないのかもしれない。そのようなコンテクスト。
そして2つ目、既視感・デジャブの失念だ。あるいは鈍感になっているといってもいい。
つまり僕だって以前に何度もスマホを落としているし、電車の中で爆睡しているし、そのまま荷物を忘れてしまったことだってあるのだ。
そういう経験に基づき、あーオレもそういうことあるから仕方ないよな。と、自分と相手を重ねて見ることが本当は可能で、そしてそれ故に同情心を芽生えさせることも可能であるはずだ。
なのにそのことを棚上げして、偉そうにベトベトンなんて命名している。
以上この時点での2点の失念。
そして、一通り腹が立った後に、ようやっとコンテクスト・デジャブを思い出す。
そしてそこで初めてオプションが効いてくるのだ。
あーでもないこーでもない、ウダウダウダウダと。めんどくせえと思いながら。
僕の歴史上、何度か今回のような場面に遭遇していて、そして何度かスマホを「拾ってあげる」というオプションを選択している。
なぜ様々なオプションの中で、そのような結果に至っているかと言えば、一番の決め手になっているのは、「罪悪感に苛まれたくない」、あるいは、「後悔したくない」ということに尽きる。
僕はとにかくあの「罪悪」や「後悔」の暗闇の中をトボトボと歩きたくはないのだ。
だから「親切」とは無縁の行為。
ただただ罪悪と後悔に関わりたくない、そんな利己的動機の行為だ。
だが、今回は、かなり僕は体が重かった。
コロナでの自粛太りのせいだろうか。いや、実際の体重はむしろ減少していると言える。
これは精神的な太りだ。自粛生活による自粛疲れ・ストレスがもたらす精神太り。怠慢太り。これらは普段ならアクティブに人助けする僕の足を、鈍らせる。重い。
僕は色々考えた。自分の降りる駅になったら、そのついでにさっと拾って膝の上に落としてしまおうか。もしくは靴を軽く小突き起床させ、スマホを落としていることを気付かせるか。はたまたこの場の僕の唯一の理解者(と勝手に思っている)、僕と同様スマホが落とされた音に気付き何度かベトベトンの方を見やっているオジサンに望みをたくそうか。そうだきっとあのオジサンが拾ってくれるに違いない。じゃあオレは何食わぬ顔をして降りてしまおう。などなど。
あー重い。葛藤。葛藤。葛藤。しかしこの重さは、思考がほぼ楽(ラク)な方へ傾いているのにも拘らず、それをなんとか正当化しようとする言い訳作りの重さであることに、僕はなんとなく気付き始めていた。
オジサンに託してしまおう。もしくは誰かが。もしくはあと終点まで2つなのでベトベトンが終点で降りることに都合よく解釈し、そして車掌さんに起こされついでにスマホも拾ってくれることを願うか。つまりは他力本願の方向性で脳内会議のコンセンサスはとれているようだった。
しかし、とあるタイミングで、僕の味方であると勝手に信じているオジサンが、2つほど大きなクシャミをし、その後バツが悪そうに隣りの車両へと移動して行ってしまった。
おいおいおい、オレは次の駅で降りちまうんだぜ。
オジサンに見捨てられたと思った。そしてオジサンにも腹が立ってきた。全く身勝手なもんだ。
しかし実はもう一人、可能性は薄いが僕の救世主になりえそうな人物がいる。
その人物とは、ベトベトンと同じ座席に座っている、終始眠そうにスマホをイジイジしているオジサンである。
たがこのオジサンは全くベトベトンに関心をそそいでいる素振りは見受けられない。
ずっとぼーっとスマホをイジイジしている。
全くいじらしい野郎だぜ。
あんたとも、もうそろそろでお別れだ。
電車は間もなく僕の降りる駅に到着しようとしていた。
かなり前から結論は出ていた。
僕は電車のスピードが緩まっていくのを感じ、立っていた場所から足を踏み出す。
僕はもう思考していない。誰に対してなのか、演技をし始めている。何食わぬ顔。ふてぶてしい態度。
電車がゆっくり動きを止めに入る。僕は腰に手を当て、ジーンズの位置を正す。降りる時のお決まりの動作。電車が停止する。ドアが開く。僕は踏み出す、罪悪と後悔の暗闇の中に。
ベトベトンが視界から消えた直後から、僕の気持ちは鬱屈としていた。
あー始まったぞ。暗闇の中での環状線的自問自答が。
なんでスマホを拾わなかった。情けねぇ。意気地なしが。あれほど後悔するって分かっていたのになぜ動かなかった。クソやろうめ。罪悪。罪の意識。この先なにかよからぬことが起こるのではなかろうか。凶兆。はあ〜。鬱屈。
と、このような陰鬱ジメジメモードは序盤だけで、徐々に甘ったるい蜂蜜のような、ヌメヌメしたぬるま湯に浸かり始めようとしていた。
神妙な面持ちの悲劇の主人公。さながら罪と罰のラスコーリニコフ。
罪悪に苛まれていると装うことがカッコいい。それが自分というアイデンティティ。自分は周りの奴らとは違う。オレは主人公だ。
そのような甘美な世界の中の僕こそがヌルヌルした、そう、ベトベトン野郎だったのだ。
そして僕はその世界にいることすら面倒臭くなって、この出来事を考えるのを辞めにかかっていた。
こんなこと考えてたってしょうがない。後悔してたってしょうがない。前に進むしかないと。
僕は昔から罪悪や後悔に囚われやすいが、年齢を重ねるごとに、その意識が徐々に薄まってきているような気がする。
正直罪悪や後悔に囚われるのはストレスが溜まるし疲弊する。だからこの先の人生を進むためには、いちいちその様なストレスを溜め込むのは馬鹿げている。だから少し反省し、そしてすぐ忘れ、同じ轍を踏まぬよう心がければそれでいいではないか。悩んでたってしょうがないではないか。と、自分の都合の良いようにポジティブ思考に転じる身体になりつつある。ある意味この世の処世術を僕は学んでいるのかもしれない。
そして今回も、僕はその処世術を実行しようとポジティブ思考に移行しようとした。
しかし、そのように転じようとした時、僕はあることに気がつき、そして疑問に思った。
オレって何なんだ?
ポジティブ思考に転じようとした時、僕の中に抵抗心の萌芽を感じた。
僕がこのままポジティブ思考に移行してしまったら、僕が僕でなくなるんじゃないかという気がした。
罪悪・後悔に囚われている僕。それが僕という証。アイデンティティなんじゃないのか。
それがポジティブに移行するということは、本当の僕を捨てる、忘れることになるんではないのか。
そしてそれがないと他人と差別化できやしないんではないのか、と。
そして僕は気づく。本当の僕なんていない。ましてや罪悪・後悔に囚われているのが本当の僕なんて馬鹿げている。そんなの甘美な世界の中での猿真似に過ぎないではないか。現に僕はそれらを忘れることができる。忘れてポジティブな世界へと足を踏み出すことができる。今まで何度もやってきたことだろう。
だから本当の僕なんていやしない。
・・・まあ、それはよしとする。そんなのとうに分かっている。問題はそのあとだ。では、
オレって何なんだ?
罪悪・後悔の僕は忘れることができる野郎だとしても、それじゃあその他の思考する僕をも忘れることができるんではないか。
思考そのものを僕から抜き去ったら、僕とは一体誰なんだろう。何なんだろう。
僕は僕である必要がないではないか。いやこの時の「僕」ってなんだ?誰を指してる?何を示してる?
そして僕は自分が他の誰かと代替可能な気がしてきた。別に僕は他の誰かだっていいのではないか。僕は空っぽで、僕は空虚で、僕は無かもしれない。この時の「僕」は何を示してるのだろう?
いや、ちょっと謎めいて書き過ぎた。話が脱線している。
僕が言いたいことは、僕は空っぽで、取るに足らない、ちっぽけな人間だということだ。
本当の僕なんて分からない。そんなのいるのかさえ分からない。分かるのは僕がちっぽけで、何者でもない取るに足らない人間だということ。
何者かになりたがっているカッコつけなダサい野郎だってことだ。
あーまた記事が長くなってしまっている。すみません。そろそろ終わりにしますので。
坂口安吾は色々な意味で堕落を推奨している。
それは、人間は堕落する生き物であり、堕落する前に、美がどうとか、わび・さびがどうとか、努力は美しいとか、節約は美しいとか、日本人的って美しいとか、なんだか訳の分からないフワッとした曖昧な御託を並べて誤魔化し思考停止する前に、まずは己を見つめよ、と言っている。孤独になれ、と。
すると己の駄目さに気づく。己の堕落っぷりに。己は堕落する。人間は駄目なやつ。人間は堕落するのだ。
そして、堕ちて、己を見つめ続けると、己は堕ち続けることができないことに気が付く。人間は堕ち続けることができない。
そして己は這い上がることを望む。人間は上昇することを望む。堕落野郎なりの上昇。しかしそれが真の上昇、前進なのだ。
はたして僕は己を見つめ、堕落したのだろうか。
カワイイ自分を正当化するための言い訳としてこのブログを利用しているに過ぎないのではないか。スマホを拾ってあげなかった薄情な自分を正当化するために。
だけど僕は上昇しようと思う。前進しようと思う。僕にはそれくらいしかできそうにないからだ。
今度同じ場面に遭遇したら、スマホを拾ってあげることにしよう。
とりあえず、そのことを胸に刻もう。
未来の自分の背中を、過去の自分が強く押せるように。
まあ、まだ「堕落論」全部読み終わってないんだけどね。
それでは!