ハイハイで散歩中

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ひろゆき(西村博之)著「論破力」を読んで

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ひろゆき氏のことは、ニコ生やアベマでたまに見かけていたので、大体どんな雰囲気の人なのかは分かっていた。

だから、氏の著書も、きっと友達にはなれなそうな、いやいやそれは向こうから願い下げなんですけどハイ論破、的な感じの本なのだろうと若干身構えて読み始めた。

結果から言えば、ひろゆき氏の無茶苦茶狡猾なイメージは崩されることはなかったのだが、ただやはり、すごい人だし、尊敬するし、面白い人だなという印象も変わらなかった。

しかし、ひろゆき氏のイメージは変わらなかったのだが、僕は本書を若干誤解していたことに読み始めてから気が付いた。

「論破力」などと、まさにひろゆき氏を象徴するような題名でお送りしているので、恐らく論破のハウツー本みたいになっているのだろうと思っていた。

確かにハウツー本として読めなくはないのだが、読了した結果、こうやったら人生もう少し楽になるよね的な、気楽に人生を送るための自己啓発本のようになっているような感想を持った。

だからどこかに1つは、あーこういう状況あるよな、こういう人いるよなと、共感できるポイントがあると思う。

だから「論破力」というどこか人間味にかける題名を嫌厭するのではなく、そういう誰しもが経験したことのある人間関係についての本だと思って本書を手に取っていただけたらと思う。

それでは以下、本書の紹介です。

構成


本書は各6章に分かれて構成されている。

6章に分かれてはいるが、ほとんど対人との関わり方だったり、議論の仕方、こういう人にはこういう風に接したらいい的なことが書かれており、このことからも、本書はやはり人間関係についての本と捉えることができる。

最初の章から議論の話や、こういう状況ではこうやったらいいよねという話は出でくるのだが、後半の章になるにつれて、より具体的な、より実践的な話になっていると思う。

例えば、第3章の「手ごわい相手に『YES』と言わせる説得術」や、第4章「厄介な人を転がす技術」、第5章「ああ論破したい-こんなときどうする?!ひろゆきのお悩み相談室」など。

個人的には、より具体的になっているからといって、共感性が減るということはなく、ほとんどの項目において、なにかしら共感や得られるものがあったように思う。

では早速、僕が気になった内容をいくつか挙げてみます。

(*書き方の構成は、1.引用文、2.それに伴う幾つかの要点、3.説明、となっているが、要点は、その引用文ページ付近から挙げているとういうことでは特になく、本書全体から、引用文に合うだろうというものを僕の独断でピックアップしている。そして、そのすぐ下の説明文も、多少なりとも僕なりの解釈に変えて書いているところもあるので、そのあたりはご容赦いただければと思います)

内容紹介

 

「相手を論破できるかどうかは、要するに説得力のある話し方ができるかどうかにかかっていると思います 」  (「論破力」P.4)

・相手を説得するためには、「論理」と「事実」が必須アイテム
・事実ベースで話す
・第3者を立てる
・ジャッジ者(第3者)を見極める

 →例え、小学生VS大人であろうと、「論理」と「事実」があれば、小学生でも勝つことができる。ただし、この時重要なのは、必ずジャッジ(第3者)をつけることと、誰がジャッジしているかを見極めること。

例えば、母親ジャッジのもと、息子VS父親の場合。父親が1+1=3と主張したのに対し、息子が1+1=2と主張する。父親がどんなに反論しても、事実を主張する子供が、母親に、1+1=2だよね、と聞けば、「そうよ、あなたが正しいわ」となり論破成功。

これが、父親に100万で雇われた金目当ての見知らぬ人がジャッジの場合、どんなに子供が事実を主張しようとも、ジャッジは父親の味方なのであり、子供の負けは明白になる。

また、第3者やジャッジ不在で2人きりで議論を開始してしまった場合、こちらもどんなに事実を主張しようが、勝敗を決める人が誰もいないので、お互い水掛論になり、そもそも議論が成立しないことになる。

だから、議論には「論理」と「事実」が必須になるが、そこには必ずジャッジを下す第3者を立てること、そして、そのジャッジがどのような人なのかをよく見極めることが重要になるのだ。

またこの第3者を立てるというのは、会社の中でも役に立つ。

例えば、上司に会議室に呼ばれ、密室で2人きりだけで理不尽なお説教をされる。 上司は感情的になっているため、こちらが反論しても火に油を注ぐだけで、一向に説教は終わらないし、議論にもならない。だからその場は、「すみません。少し考えさせてください」などと適当な口実を述べてそこから離れる。

そして、自分の持ち場に戻り、会社内の共通メールかなんかで、みんなの目に触れる場所で、議論を再開させる。この場合、そのメールを見ているみんながジャッジメントになる。

上司も、みんなが見ている手前、感情的になることができず、しだいに熱が冷めていき、説教も鎮火するというわけだ。

これは、別にメールを使用しなくてもよくて、後日に上司よりもさらに上の上司などの前で、議論を再開させる方法だってよい。

つまり、

時間差が生まれてもいいから観客のいる場所を必ずどこかにつくって、ジャッジの前で議論するようにする  (「論破力」P.68)

ということだ。

 

「たぶんみんな、物事に思い入れが強すぎるのですよ 」(「論破力」p.82)

・主観が入り込んだ議論は不毛
・感情移入をしない方が得策
・主観は説得できない
・「思う」は否定できない

 →討論番組なのでよくありがちなのが、問題を善悪で判断して議論を展開するということがある。

善悪というのはいわば主観なので、そういう頼りないもので議論するということになる。

これは議論で相手を説得しようとする際の基本になる「論理」と「事実」の『事実』がない状態になっている。

だから相手を説得しようにも、そもそもの『事実』がない主観での問題なので、説得は困難になる。

例えば、「目玉焼きにかけるのは『ソース派か醤油派か』」だったり、ドラクエがすごい好きな人に、いかにドラクエの駄目な部分をプレゼンしたところで、相手の根本原因である「好きという主観」は、あくまでも「自分はこう思う」レベルでの主張なので、それを否定したり、論破することは難しいということだ。

もっといえば、主観での議論は正解がないというかゴールがないので、そもそもの話し不毛ということなのである。

ところでひろゆき氏は、あまり物事に思い入れがないようである。

それは、友人に対しても変わらないようで、

だいたい一皮むいたら人間、悪いヤツじゃないですか。「こいつダメなヤツだな」みたいなのばっかりなので、世の中・・・。自分のことをちょっと振り返ってみれば、普通そう考えると思うのですがね。(「論破力」p.83)

他人にあまり期待しない。なぜなら自分がダメなやつだから。すごいドライな考え方のようでもあるが、正しくその通りとしか言いようがない。だけどもこれも、処世術の1つのような気がする。

まあ、それは置いといて、つまり、物事に感情移入すると説得力が低下するので、なるべくそういう議論の仕方は辞めといたほうがいいよね。という話である。

 

なんであの人、あんなこと言うんだろう?という相手の問題ではなくて、『自分は、言い返せなかったのは、なぜか?』と自分の問題として分析する。」(「論破力」P.157)

・おかしな人のエネルギーを受け取らない
・クレーマー対策
・自分の常識は相手の非常識
・議論はゲーム(エンタメ)

 →居酒屋で隣の理不尽な客に絡まれたとしても、わざわざその客の温度に合わせて応対しなくてもよい。そういう人は議論とかマトモなやり取りを望んでいるわけではないので、「そういうことは店員さんに言ってもらえますか?」などと言って、早々に店員さん(第三者ジャッジメント)を呼んで、スルーした方がよい。

また、別のパターンとして、ある程度こちらに責任がある立場の場合。相手の理不尽なクレームや、やたらと怒り狂って文句を言ってきたら、やはり反論するのではなく、相手と同じ立場になって、つまり、「自分もお客様と同意見で、僕も本当に困ってるんですよ。ほんとにうちの会社おかしいですよね」などと自分はあなたの味方ですよアピールをする。こうすることによって、仮想敵という第三者を創り上げることができ、さらに仲間意識を強固にできる。

つまり、敵VS敵という構図ではなく、味方&味方VS第三者という構図にするということだ。

以上のように、自分で色々工夫することによって、理不尽なクレームに対応することができる。

また、理不尽なクレームにみえても、それは実は、その当人にとっては常識という場合がある。つまり、自分にとっては常識でも、相手にとっては非常識という場合があるということだ。

例えば本書ではフランスと日本の文化の違いが紹介されている。

日本で満員電車に乗る場合、黙って他人を押し込んだり、無理に車両に乗り込んだりすることが往々にしてあると思う。

だがフランスの場合、無理やり乗り込もうとするのは「暴力行為」とみなされ無茶苦茶避難されるらしく、もし乗り込みたかったら、ちゃんと声を出して、「すみません。ズレてください」と言ってゆっくり乗り込むのだそうだ。

また、別の場合のフランスの一例。おばあちゃんが、信号が青から赤に変わった横断歩道をゆっくり歩いていても、「おばあちゃんはそういうものだ」という認識があって、一切車のクラクションを鳴らさないのだそうだ。

この2つの例は別に、日本がフランスより心が狭いとか、そういう比較ではなく、常識というのは、距離が遠くなれば非常識になることがある、という文化の違いの話である。

そしてその違いの比較は、考え方によっては、気持ちの余裕を生む。

その気持ちの余裕は、理不尽なクレームにも役立つ。

もしクレームを言われても、ああ、これは文化の違い、常識の違いから生じているものなんだな。または、この人と自分とでは考え方が違ったり、こだわっている部分が違ってるんだな。または、単にストレス発散のために怒鳴っているんだななど、一呼吸置いて冷静に考えることができ、そう考えていくと、あまり相手の怒りを受け取らずにすむ。

そして、こういう相手のことを考えながら応答していくやり方は、「議論はエンターテインメント」、「議論はゲーム」、というような考え方に繋げることができる。

つまり、様々な問題で他人に応対する時や対峙する時、それら他人との関係を愚直に真っ向から捉えるのではなく、「このやり取りはエンターテインメントなんだ」、「ゲームなんだ」と捉えることで、その場を好奇心を持って楽しめたり、わりと気楽にやり過ごすことができたりするということだ。

ひろゆき氏は書いていないが、僕は、「この議論はエンタメ」、あるいは「ゲーム」という考え方は、人生全体においても活用できると思う。

というか、僕自身、嫌なことがあった時は、「人生はエンタメだ」、「人生はゲームなんだ」と思うようにして、その場をやり過ごすことがある。

なぜなら、問題に愚直に、真っ向から対立すると、「人生やってらんねぇわ!」という事態に陥ってしまうと思うからだ。

こういう考え方は、ある人からすれば、とても軽薄で、人生をなんだと思ってるんだ!と批判したくなるようなものかもしれない。

だがこれは、僕にとっては人生をやり切るための処世術なので、そういうものを1つくらい持っていてもいいだろうと思う。

正直、このひろゆき氏の、「議論はエンタメ」という考え方が、本書では一番ぐっときた。

こう考えるだけでもの凄く気楽に、どこか肩の荷が下りるような気持ちにさせられる。

結構長くなってしまったので、このくらいで紹介は終わろうと思う。

 

最後に


ひろゆき氏も最後に言っていたが、結局、他人を変えるよりも、自分を変える方がはるかに簡単で、自分の心がけしだいで人間関係結構なんとかなるんじゃないかということだった。

確かに僕もそう思う。

だけど実践しようと思うと中々難しい。

でも本書はなかなか役立つと思うので、このような考えを念頭に置いておくだけでも、結構いいのではないだろうか。

あと余談だが、こういう書評ブログというのはなかなか書くのが難しいなと思った。

なぜなら、上に書かれていることは、当然のことながら、ほぼ全て、ひろゆき氏の本の内容を元に書いている。にもかかわらず、僕はつい癖で、「~である」や「~だ」など、あたかも僕自身が思いついたような文体になってしまうのだ。

あー難しい。

勉強が必要だわ。

すみません。こんな終わり方で。

っていうか結構な長文になってしまった。これも悪い癖だ。

終わります。

ありがとうございました。