ハイハイで散歩中

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中島義道著「時間を哲学する-過去はどこへ行ったのか」を紹介する(後半)

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少し間が空いてしまいましたが、以前書いた、中島義道さん著「時間を哲学する-過去はどこに行ったのか」を紹介する記事の後半です。

www.teheperow.com

後半に入る前に、前半の記事をざっとおさらいします。

・人間は時間を無意識に「空間化」している。
・普段僕達が「時間はー」と語る時、それは振り返った「過去」を指しており、そのような意味で、時間論の中核をなすのは「過去」である。

・時間には、「印象時間」と「客観時間」があり、その2つの差異が時間の「早さ(速さ)」になる。
・言葉が生まれてなかったら、時間も生まれていない

などです。

さて今回は、本書の主題「過去はどこに行ったのか」に迫っていきたいと思います。

 

過去はどこにも行かない


核心に触れてしまったというか、早くも本記事のまとめに突入するが如く勢いですが、引っ張ってもしょうがないと思うので言っちゃいました。

 

過去はどこにも行かねぇ!

 

前記事でも散々書いた通り、人間は無意識に時間を、「空間化」してしまっているわけですよ。

だから、あたかも「物質」のようにどこかに流されて、そしてどこかに保管されているような錯覚をしてしまうわけです。

元も子もないことを言えば、そもそも「過去はどこに行ったのか?」などという問いの立て方自体がおかしかったわけです。

では、過去はどこにも行かないのであれば、どのような場面で、「現在-過去」は立ち現れてくるのでしょうか。

中島さん曰く、大森荘蔵、ラッセル、ショーペンハウアー、アウグスチヌス、フッサールなど、数多くの哲学者は、「過去」を考えるにあたって、「現在」が中心の世界像から展開しているといいます。

つまり、「現在」を洞察して、そこに「過去」、またはその「片鱗・痕跡」を探そうとする。

しかし、いくら「現在」を洞察したところで、現在から過去に移行するその分岐点、過去の片鱗・痕跡は見えてこず、待っているのはどこまでも「現在」のみ、「現在」の袋小路だといいます。

そこで中島さんは、いわばコペルニクス展開、「現在」から出発するのではなく、「過去」から出発する方法で、この問題を乗り越えようとします。

では、過去から出発するというのは具体的にどういうことなのか。ここで「文法」が重要になってきます。

「過去形」の文法


例えば、「今日は暑いなー」と語る人が、「暑くない」と思える時はいつでしょうか。

これは、単純な問いのようで、時間の要をなすとても重要な問いです。

気温というのは、夜へ向けて徐々に下がっていく。30度から29度、29度から28度、27、26、25・・・・・・20度。このように連続的に下降していきます。

その連なる数字の、ある変わり目、つまり、「25度から24度へ」、「21度から20度へ」などの、数値の推移に呼応して、「暑くない」と思うのでしょうか。

否、「暑い」から「暑くない」への移行は、そのような数値に求められるものではありません。

ではどのような時か?

 

それは、「今日は暑かったな」と、過去形を使用するその時です。

「今日は暑かったな」と語るその時は、たいして暑くない時であり、明らかに、「今日は暑いなー」と語っていた時より涼しいと思っている時でしょう。

なんだか馬鹿げた屁理屈のように聞こえるかもしれませんが、この文法・言葉遣いが、時間の本質をよく表しているといえます。

というのも、前回の記事でも述べましたが、「時間」というのは、「概念=意味的了解」なわけです。

ということは、勿論、現在と過去の区切りも意味的了解となる。

物理的関係においての事象は、連続的関係にあるが、時間(概念)的関係・現在ー過去の関係は、意味的(概念的)=言語的関係にあるのです。

そして、過去を考えるにあたって、「現在」から出発するのではなく、「過去」から出発するということがどういうことかが以上のことから分かります。

つまり、「今日は暑いなー(現在)」から出発するのではなく、「今日は暑かったなー(過去)」から出発するということです。

「今日は暑いなー(現在)」から出発しても、どこまでも「現在」があるばかりで、過去の痕跡は見えてこない。しかし「今日は暑かったなー(過去)」から出発すれば、それは過去を語っていることになり、そして、その過去を語っているその時は「現在」でもある。

つまり、この過去形の文法を使用して語るその時、現在と過去が一挙に立ち現れてくるのです。

そしてこのことは、現在と過去は表裏一体であることを明らかにする。「現在」は過去を通過しての現在であり、「過去」はその現在から振り返ることで現れてくるものだということがわかります。

そして、それらは、過去(形)から出発することで初めて可能になるということです。

 

過去は今ここに立ち現れている

 

まとめに入りますが、時間は直線を流れていくような物理的事象や空間的なものではなく、意味的(言語的)了解です。

そして、過去はどこに行くのでもなく、今ここに、「もはやない」という意味的了解として立ち現れている。

そして、中島さんはこうも述べる。

人間は、現在と過去の二元論を決して克服することはできず、その二元論は、われわれの世界に対する態度の根っこを形成している。

つまり、全ての現象(例えば、認識論、存在論、自我論等々)は、この現在と過去の関係から始まるのであって、必死にその両立不可能性を解決しようとする必要はない。

今ここを離脱しつつ(想起)も、今ここに止まっている二重存在、それが人間なのだと。

 

過去はどこにも行かず、今ここに立ち現れる

 

ということです。

 

本書では、この記事では紹介しきれなかった、中島さんの時間についての洞察や知見でまだまだ溢れています(例えば、「想起」、「不在への態度」、「世界5分前仮説」、「夢と過去」、「未来はあらゆる意味でない」、「今は概念」等々まだまだたくさん!)。*1

少しでも興味を持っていただけたなら、ぜひとも本書を手に取って、ご自身の頭で考え、咀嚼しながら読むことをお薦めいたします。

この記事からではとても味わえない、知的快楽が待っているはずです。

 

終わります。ありがとうございました。


「時間」を哲学する (講談社現代新書)

 

*1:「」の中は本書にそのような題目があるわけでなく、僕の解釈によるワードです。