先日、家の近所の蕎麦屋でざる蕎麦を食べた。町の古くからある蕎麦屋の常として、夜は飲み屋と化す店が多い。ご多分に漏れず僕が行った店もそうだった。その店は、外から中の様子が見えればいいのだが、窓に謎の暖簾(のれん)が掛かっており、少しの隙間しかないので、まるで襖の向こうの両親のケンカをこっそり覗く子供のように、店内をチェックするしかない。
かろうじて覗き見えたのは、お客さんの足なのか椅子の脚なのか、また座っているのがお客さんなのか暇で自ら座ってテレビを観出した店主なのかの判断ができず、周りの目も気になりだしてくるので、結局半ばヤケクソで店内に入ることになる。
そして戸を開けると、案の定、結構人が入っていて、しかも僕以外みんな知り合いという(その時は女性が多かった)、全く経験したことはないけれど、まるで転校生のような気分になり、話しが一斉に中断され、しかも思ってたのとチゲーみたいな失意の念で店内が満たされているような気になる。
そして会話は復旧するが、みんなあの全盛期には戻れない、もう華麗なプレイはできないのだという衰えたスポーツ選手のような、失望と、幾ばくかのプレイ時の違和感を抱きながら会話を進めているように僕には見えた。そしてあまりにも居心地があれだったもので、思わず隣の人に尋ねてみた。
「あのー、僕ここにいて大丈夫ですかね?」「いーわよ。お食事でしょ」全然いーわよの目をしていなかったが、その女性とどこがで会った気がしてならなくて、僕はお酒が入って目がトロンとしたその女性を暫し見続けていた。すると僕の目線に気付いたのか少し照れながらも僕の方をチラチラ見てきた。
僕はさっさとざる蕎麦を注文し、近くの新聞を取って読むことに集中した。するとその女性が僕の頭上にあるテレビを見て「伊勢か~。私5回は行ってるわね」と誰に言うでもなく呟いた。すると不意をついて僕に「あなたは伊勢についてどれだけ知ってる?」と突然話しかけてきた。
「いや、伊勢神宮くらいしか知らないですけど」「伊勢か~。私5回は行ってるわね」と僕の返答を無視し、対面の女性のお客に話しかけた。話しかけられた女性は僕が店内に入った時から眠たそうにテレビを観ていて一回も会話に参加していなかったので、その時も呆然とテレビを黙って見続けていた。
そしたら、「あなたは何回伊勢に行ったことあるの?」とまた僕に話しかけてきた。「いや一度も・・・」「私は5回は少なくとも言ってるわね」と、また対面の女性に話しかけた。僕は思わず「あの、僕一回も行った・・」「あなたは新聞読んでなさいよ!」といきなり怒鳴られ僕は呆然とした。
もしかしたら僕はこの女性に翻弄されているのかもしれないなと思った。そして蕎麦が運ばれてきて食べている時も僕はその人が気になってしまい、何度も蕎麦を掴み損ねた。「あなたなんのパフォーマンスの真似なの?」と僕の失態を見逃さず突いてきた。「もういいわよ」と何故か失念された。
そしてかろうじて蕎麦を食べ終わった僕に、「あなた食べるの遅いわね」と言ってきた。僕は何だか恥ずかしくなった。「伊勢にも行ったことないし、変なパフォーマンスするし、おまけに食べるの遅いしで、あなたしっかりしなきゃだめよ」と何故か怒られた。なんなんだろうこの人は。
そして、「もうみんな帰りましょ」と言って、最後に僕に、「伊勢に行っときなさいよ」と最後まで伊勢押しの掴めない女性だった。僕は最後まで翻弄されっぱなしで、取り合えず気持ちを落ち着かせるために蕎麦湯を飲んだ。そして店主に800円を払って店を出た。
という蕎麦屋での奇妙な話だが、今思い起こして、文章を書いたのを見直すと、なるほど脚色が過ぎるな、と僕の悪い誇張癖を、改めて実感した。という話。