ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

僕は炭酸ジュースが飲めない

だけど、生ビールは飲める。
この差異はなにか。

僕は子供の頃からコーラやファンタやサイダーなんかを退けてきて、自動販売機で買うものといったらバヤリースのオレンジジュースだったり、ネクターの桃ジュースだったり、ポカリスエットだったり、紅茶花伝だったりした。
だから人からのご好意で炭酸ジュース類を貰ったりすると、

「あ、あ、あざーす」

という、本質の前に、「あ」というなにかをためらった痕跡を残した反応になってしまう。

当然、それら炭酸ジュースを退けるに至ったきっかけはある。
ある。というか、今となってはその当時の記憶は曖昧なので、恐らくそうだたったであろうな、レベルでの記憶にとどまり、そしてその際行われるのは、強引にネガティブな雰囲気を作りだし、あたかも嫌な思い出のように回顧するという、もはやそうだと思い込むことでしか成立しえない、感覚としては古(いにしえ)レベルの過去の話となっている。
と、今上記で説明したことは、なんとなく箔が付くように、「思い出し方」それ自体の構造をそれっぽく書いてみたのだが、それは、炭酸ジュースを退けるに至った過去の話が、特に物語なんてない、どうってことのない、単なるそれが嫌いな「理由」の領域を出ない、一文ですんでしまう理由だからである。その理由とは、

「なんか喉がイガイガするから」

である。

子供の時に成立する理由のほとんどが「なんか」という漠然的で直感的なものである。
そして、それが前提となったまま大人になっていく。
つまり、大してその理由を掘り下げることをしない。
なので今回は少し掘り下げてみようと思う。

 

この問題で重要になるのは、その対象に対して「なにを求めているか」であると思う。
「なんか喉がイガイガする」と思った当時の子供の僕は、はたしてジュースになにを求めていたんだろうか。
恐らくそれは、「ゴクゴク飲める」だったに違いない。
喉の渇きを一刻も早く潤したい。一刻も早く水分で満たされたい。
だから今でもそうだが、僕は比較的飲み物を飲むスピードが速い(ただしコーヒーは除く。コーヒーにはまた別のなにかを求めている気がする。例えば、リラックス感や、黄昏感など)。
そうなると、炭酸ジュースは僕の要望には応えられないことになる。
速く飲めない。僕は速く飲みたいのに。
ジュースは僕にとって速く飲める飲み物という定義付けがなされている。

いつもの様に缶ジュースを飲む。
僕は驚く。不意の障害物に。
それはシュワシュワ。炭酸。
これは僕の中のジュースの定義に当てはまらない。納得がいかない。
ゆえに、退ける。

かなり雑な流れだが、ざっとそういう流れになっているように思う。
人間は納得・了解がなされないものは上手く飲み込むことができないように思う。
それは、飲み物に限ったはなしではない。
「情報の不透明性」による予測のできなさ、不安。例えば、仏頂面の人や、電車内で電話する人などに対して不信感を抱いたり、イライラしてしまうのは、その人がなにを考えているのか、その人が一体誰と話しているのか、はたまたその話している内容をこちら側が把握できない、理解できないからで、そして、そのような納得・了解できないものを人間は受け入れることができない、または飲み込むことができないので、不信感を抱いたり、イライラしたりするのではないだろうか。
このような記事を以前にも書いたので貼り付けておきます。

 

www.teheperow.com

 

では、生ビールはどうなのだろうか。
先述した論理でいくと、生ビールはジュースではないので、「ゴクゴク飲める」ものでなくてよい。つまり、そこでは炭酸の障害は関係がなくなる。
ただ、やはり最初の頃は、「僕は炭酸が苦手」という意識が強く、すんなりそれを受け入れることができなかった。
ただ、僕が生ビールに求めていたことは別に「ゴクゴク飲める」ことではなく、「大人の嗜み」だったり、「なんだか大人の仲間入り 」だったりする。
だから、炭酸が気になったのは最初だけで、僕の要望は、「生ビールを飲むこと」をして初めてスタート地点に立つというか、可能性が開かれる。
僕は別に炭酸アレルギーではないので、単に「炭酸が苦手」と思い込んでいるに過ぎないのだと思う。
だから、恐らくこの先、炭酸ジュースを好んで飲む日も訪れるかもしれない。

 

また、僕はあまりラーメンが好きではない。
ラーメン屋に行こうと提案されたら、まず、そこにはチャーハンはあるのか、なかったら最悪つけ麺でもいいんだけど、と聞いてしまう。
僕は好きな食べ物の中でかなり上位にチャーハンがランクインしてくる。
もっと言えば、僕はご飯が好きだ。ご飯LOVE。
中華屋で、チャーハンのお供に白ご飯を頼むくらいご飯が好きだ。
たまにチャーハンと白ご飯を混ぜ混ぜして食べることだってある。
そうなると、ヒエラルキーではご飯の下に麺類があるのは自明。
あと、僕は猫舌でもある。熱いものが得意ではない。
そして、食べ物のジャンルにおいても、僕は速くとまでは言わないが、スムーズに食べれることを重視していて、そしてお腹いっぱいに食べたいという欲求がある。
だから、熱いものはお腹が空いている時はなるべく避けたいし、麺類はお腹いっぱい食べれないように感じる。特にラーメンにおいてはその思い込みが強い。
だがパスタ系は麺類だが、結構好きだ。恐らく熱くないからだろう。
ただ、パスタの他にピザもいきたい。やはり麺類ではお腹が満たされないと思っているからであろう。
蕎麦屋でさえ、たまにご飯を注文する。天ざると白ご飯という感じで。

ただ、僕は最近、醤油系ラーメン屋には行くようになっている。
ただ、店があまり騒がしくない、わりと落ち着いた雰囲気で、女性の店主だったらなおいい。
僕は店の居心地のよさも重視している。
食事は自分のペースで落ち着いてとりたい。
かといって女性を全面に押し出した雰囲気や、いかにもシャレオツな雰囲気が良いというわけでもない。
なんというか、ラーメンという男らしい食べ物を、女性の店主が柔和に作るというこの二つの絶妙な良い按配が、居心地の良い雰囲気を僕に提供してくれるのだと思う。
また、最近醤油系のラーメンなら食べようという気になっているのは、子供の頃、母親とよくミスタードーナツで、ラーメン(醤油系)と点心(焼売とエビ餃子か、たしか肉まんだったかな)のセットを食べていたのが影響していると思う。
なぜかあのセットは白ご飯がなくても好んで食べていた。
僕はクレープ屋でさえ、甘い系は頼まず、ハムチーズや、ツナマヨなどのガッツリ主食系を頼む。
だからもしかしたら、「ドーナツ屋」という「甘いもの」カテゴリーの制限された中で、甘い系を食べなくても済む救済処置として、ラーメン・点心セットをある種のオアシス的に捉えていたんではないだろうか。
つまりその限定された場所の中では、「自分は醤油系ラーメンが好きだ」という錯覚が働いていたとさえ言える。
そして、今日に至るまでの間、そのことを思い出す際に、その限定された場所を気付かず飛び越えてしまい、「醤油系ラーメンなら食べれる」というそこだけをピックアップしてしまった結果、そのような思い込みの前提を作り上げてしまったのではないだろうか。
また、通っていたミスドの店内の雰囲気も良かった印象がある。落ち着いていて、僕はすごく安心感の中、それを食べていた気がする。
そういうのも影響しているのかもしれない。
まあ、幾らか記憶を改ざん・捏造しているかもしれないのだが。

 

というわけで、好き・嫌いというのは、その対象に「なにを求めているのか」、そしてそれを、「納得・了解」できるか、というのが、関係しているのではないかと思います。

つまりは、僕は、チャーハンが好きで、もっといえばご飯が大好きです。

あと、コロッケも。

終わりです。