先日(と言っても3週間程前になるが)、10月28日に行われた、ピコ太郎の「日本外国特派員協会」での会見を観て、なにか新しい風が吹いたような、既存のものをぶっ壊す期待感やわくわく感を抱いた。(これは先のアメリカ大統領選も似たようなメカニズム、つまり瞬間的に盛り上がるお祭り的感覚をある見地から見れば持ちうるが、お祭り的感覚というのは、「日常から、熱狂的に盛り上がり、そしてまた元の位置に戻れる」という、「また元の位置に戻れる」つまり非当事者、対岸者、野次馬性を前提としなければ成立しないと思う。現段階では非当事者の日本人として、棚上げしてまだ対岸にいれると思うことができる段階(暫定期間)までなら「元の位置に戻れている」と思い込めるが、いつまでも野次馬ではいられない、もはやお祭り的感覚ではいられない状況がすぐそこまで迫ってきていると思うので、そのようなことを踏まえると、アメリカ大統領選(日本人的見地からも、アメリカ人的見地からも)は、ピコ太郎のそれとは、全く相違する。結果「相違する」で締めるなら、じゃあ最初から書くなと突っ込みを入れられそうだが、トランプ旋風に乗りたいミーハー心が僕にだってあることをご容赦願いたい。)
この感覚は、去年の「M-1グランプリ」決勝での「メイプル超合金」の漫才を見た時にも味わった。だが、今回のピコ太郎の会見は、もっとスケールの大きい、今までのお笑い界をも揺るがす、いわゆる名だたるビッグネーム、または現お笑い界の権威をも揺るがす、ビッグウェーブの到来を見た気持ちになってしまった。
僕はお笑いが好きだが、正直下火になってしまっている。もちろん僕の趣味・趣向も変わってきているので、お笑い好き全盛期(10年程前)のころと比較したら当然のことなのかもしれない。ただ僕も変わってきたし、もちろん僕を取り巻く環境、そして大きくは時代も変わってきた。メディアも多様化し、若者のテレビ離れと言われて久しい。
こうなると、既存のお笑いに飽きてくるというのは必然のことのようにも思える。
また、僕はどんなに新しいお笑い芸人が出てこようが、今のお笑い界の重鎮(例えばダウンタウン、とんねるず)を超えることや、現お笑い界を揺るがすような現象が起こることは不可能だと思っている。
もし、それが可能になるとすれば、ある種のイノベーション的な、お笑い界でなはい全く違うジャンル、もしくは全く新しい形態での表現が求められるのではないかと思っている。
そこで登場してきたのがピコ太郎である。
ピコ太郎がここまで流行った要因は複合的なものだと思う。シンプルな単語、軽快なリズム・踊り、インパクトある容姿。もちろんジャスティン・ビーバーの影響、通称ジャスティンインパクト(古坂大魔王がそのように呼んでいる)も多大に影響している。そして国境を越えて色々な人が色々なバージョンで動画をUPしているように、総じて、「真似したくなる」要素(思わず一緒に踊ってみたくなるような、思わず口ずさみたくなるようなフレーズなど)が、SNSなどのインターネットシステムに象徴されるような、今の時代にがっちりはまり、ジャスティンインパクトと共に急速に広まったのではないかと思う。
だから、
内容が面白いから流行ったわけではない、と思う。
個人的には好きな内容の笑いだが、万人に受け入れられやすい類の笑いかと問われれば、そうではないと答えてよいと思う。
ユーモア的には、ナンセンスの、シュールな笑いに属すると思う。そのリアクションに際して、「は?」、「だからなに?」という反応に帰結する、そういう類のユーモア。
このユーモアを海外の人が理解して享受できている人は少ないのではないかと思う(勿論推測)。
したがって、国境を越えて広まったのは、先述した、SNS的見地から捉えた要素に反応した結果だと思うので、「これ面白いのか?」「全然理解できないんだけど」などという動画のコメント欄(勿論笑いの反応として、いたって健康的な反応ではあるが、多くのコメント者は、「なぜこんなに流行っているのか?」という、動画そのものに対してではなく、その背景に対してのコメントをしているように思える)を見ていて、ここまで流行らなかったら、また違ったコメントになっていたんじゃないかな、と思ってしまう。
ただ、ピコ太郎のユーモアについてここで語りたいのではない。
ピコ太郎のユーモアを観て、新しい風を感じたのではないのだ。
僕が語りたいのは、海外の記者がたくさんいた、世界に発信された、「日本外国特派員協会」での、ピコ太郎の扮装をした(ピコ太郎というキャラを演じた)、古坂大魔王のユーモア、そして、通訳付きの、ピコ的古坂大魔王(ピコ魔王と呼称しよう)のユーモアである。
あの会見でのピコ魔王は、最初から最後まで徹底して普段のピコ魔王だったと思う。冒頭「PPAP(ロングver.)」を披露する時、普段からやっている習慣、「マイクの臭いチェック」というとても細かいボケを、普段通りの、ツッコんでいいのかどうかの判断に困るほどのさり気なさで入れ、途中のスピーチでは、こんなに流行ってしまったことへの驚きを、「昨日まで白髪だったのが、自力で真っ黒になりました」や、「驚き、桃の木、20世紀です」などと、笑いを発生させる上で最も重要ともいえるタイミングや鮮度、それら要素を無効化させてしまう「通訳」女性の隣で、普段と同じように、ピコ魔王のペースで会見していた。
この、「障壁」ともいえる通訳の女性(一所懸命に職を全うしている健気な女性に対して「障壁」という表現は甚だ無礼だと思うが、他によい表現が思いつかないのでごめんなさい。エクスキューズになるかわからないが、僕は最初から最後まで非常にこの女性に好感を抱いていたのは事実だ)がミソとなっていたようにも思う。ピコ魔王のただでさえツッコミづらいボケを、瞬間的に訳し、通訳の構造上、必然的に最も重要なお笑い要素を排除して届けるという行為は、お笑いとはミスマッチもいいところである(こういう理由で「障壁」と表現させていただいてます)。
ただ、その通訳女性だけではなく、「日本外国特派員協会」での会見全てにおいて、そもそもがミスマッチでドアウェイだったと思われる。正直、最初はすごくよくスベッテいたと思う。ただ、徐々に、ピコ魔王のペースになっていき、日本人記者も笑ってきて(これはかなり良い効果を与えていたと思う。ピコ魔王はなによりツッコミがなければ成立しえない類の笑いのボケをかましてくる。だからツッコミの役割を担うお客(記者)の、「笑い声」は必要不可欠なのだ)、海外の記者もなんとなく、次訳す内容は笑い所なんだな、という姿勢で聞けると思う(これは完全なる主観です)。
ただ、なにより、「そもそもがアウェイ」「そもそもがスベッテ当たり前の空気」とピコ魔王のミスマッチ感。この「ミスマッチ感」が、ピコ魔王の原動力になり、徐々にスベッテいることが面白くなっていき(通訳女性の貢献は大きい)、その状況に臆することなく小ボケを連発していくピコ魔王と、次第に「マッチ」していったように見えた。
また、感嘆されられたのが、ピコ魔王の臆することない強靭なハート、そして最後まで完全にピコ魔王であったことだ。このことが、あの完全なるドアウェイをただのドアウェイにさせなかった最大の要因であったと思う。
僕はこの会見は、「PPAP」のように、色々なものが合わさって、つまり複合的要素によって、ある意味では「日本外国特派員協会の会見」という一種の「作品」になったのではないかと思う。「アウェイ感」「通訳」「緊張」「スベリ」「ピコ魔王としての初志貫徹ぶり」などの要素。「PPAP」がこんなに流行るなんて予想していなかったと古坂大魔王は言っていた。本人が予期せぬところで科学反応が起こり、大爆発する。この会見も、予期していないものが要素になって、僕には大爆発したように思える。
古坂大魔王はインターネットを利用し、そして「音楽」と「笑い」を組み合せ「PPAP」を創り、そしてそれを利用し「世界」に対して笑いを届けにいった。
「PPAP」の内容うんぬん、それを利用し、「日本外国特派員協会の会見」のステージに立ち、そこで普段のピコ魔王の笑いをやり遂げる。僕にはこれは新しい風、というか、ビッグウェーブの到来、そして現在のお笑い界(という表現はもはやダサいかもしれない)を震撼させたといっていいんではないかと思う。
ただ、今後、へんに地上派に迎合して古坂大魔王として普通のお笑い芸人になってしまうのではなく、「PPAP」のような動画をこれからも創り続け、そして世界に配信し、今のスタンスでこのまま突っ走ってほしい。というか古坂大魔王自身が、当面はそのスタンスでやっていくと言っていたので、これからのピコ太郎というか、ピコ魔王というか、古坂大魔王にほどほどに期待しようと思っている。
個人的には、歌ネタぱかりではなく、インタビュー動画など、つまりトークの部分も定期的に更新していってほしいと思う。ただ、それは地上波ではなく、YouTubeなどのネット媒体での更新を望む。そこにこそ、今後の古坂大魔王の、広くは、「笑い」という表現の可能性があるんではないかと思う(とても偉そうになってしまった)。